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クリスチャンコミュの永遠の命とは?

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「クリスチャンとは」のトピックのなかで
「永遠の命」を信じるという事がでていましたね。

信仰告白でも「身体のよみがえり、永遠の命」を信じると言わないといけないですよね。

これは最後の審判でイエスさまが天から降りてきて、悪人と善人を裁き、選ばれたものが死からよみがえり、新しい身体を与えられて、永遠の命を授かるという聖書の言葉のことですよね。

わたしはキリスト教の他のことが信じられても、この「終末思想」だけがどうしても受け入れられないのです。
クリスチャンは皆これを信じ、本気で望んでいるんですよね...

命は永遠に必要でしょうか?
かぎりある命だからこそ、生きている瞬間をいつくしむことができるのではないでしょうか。個々の命は永遠ではないけれど、もっと大きな命の「流れ」が気の遠くなるような時間の中で、続いていくのではないでしょうか。
永遠に生きたいという人間の根源的な熱望が歴史や芸術を生み出したとはいえ、キリスト教の「永遠の命」が比喩でなく、文字通りの意味なら、これをどうしても受け入れることが難しいのです。

信仰と理性の問題でしょうか。どなたかコメントがあるかたはお願いします。

コメント(25)

俺が思うに…

http://www.hyuki.com/d/200501.html#i20050105223341

こんな感じかなぁ…

「永遠」と「時間」を切り離して考えるというか。
文字通りの意味なら俺はいらんです。
僕は永遠の命という概念を、「やたら長いどうしようもなく退屈な時間の連鎖」だとは考えていません。

永遠というのは時間の制限に拘束されないということではないかと考えています。

神様が永遠の存在だということは、やたら寿命が長いという意味ではなく、はじめもなく終わりもない。
我々が住んでいる時間の世界とは違うという意味ではないかと。したがって時間の観念のない。ですから3次元と時間のある我々のすんでる世界とは違う、想像できるものではないと思います。

僕はそれは神様が下さるよいものだと単純に信じて受け取るだけです。なぜなら神様はよい方だからです。
ちなみに。

僕は神の存在を説明する時にこういうことを考えました。

存在するものすべては因果の法則にしたがっている。宇宙にも原因があるはずだ。その因とは創造主。すなわち宇宙は神によって創造された。・・・

ここで質問です。・・・存在するものすべてに原因が必要なら、じゃあ神はなぜ存在するの?神は誰が造ったの?・・と。

僕なりの答えですが。

この世に存在するすべてのものには因果の法則が適応できます。生命にも太陽系にもそして宇宙にも。

しかし因果の法則には条件が必要です。

それは時間と空間があるという前提です。

コップを落とした。コップが割れた。・・・この因果には当然ながらコップを取り巻く時間と空間があってこそ、そこに因果の法則が成り立ちます。

現在の宇宙物理学によると、宇宙は始まりがあったことがわかっています。
宇宙には始まりがあり、今も膨張していますが、同時に有限でもあります。だから宇宙にはそれを創造した原因があるはずです。同時に宇宙の始まりは時間と空間の始まりでもあったと科学者は言っています。

ということは宇宙を創造した原因である神は、すなわち時間と空間の外にいることになります。なぜなら宇宙と時間と空間を創造したのが神だからです。

したがって神にだけはその存在の因を問うことが出来ないのです。

時間と空間を超越している神だからこそ、神は前もって与えた聖書の預言を成就させる力があるのです。時空を超越しているからこそ、神は奇跡を行われるのです。

だから我々が永遠の命をいただく時、神の本質を見ることになるのでしょう。4次元(3次元+時間)の我々の頭では想像できませんが。・・・
「長い時間が経つと全てのものは古くなり朽ち果てる」という
この世での経験則から考えると、
「永遠」とは「えらいこっちゃ」ということに思えますが、
「朽ちない身体をいただき、神様との真の関係に生きる」わけ
ですから、想像を絶する幸せを味わえるのではないかと思っています。全てをお委ねして待ち望みませんか。
非常に難しい問題ですね。

現教皇であるラッツィンガーの『キリスト教入門』を読んでも,「永遠の生命」の問題に関しては妙に歯切れが悪い印象を受けます。

ベネディクト教皇のポリシーについては是非両論飛び交っていますが,大学教授時代に築いた当代一の神学者としての名声は異論のないところでしょう。そんな神学者を以てしても「永遠の生命」は完全に割り切れない問題なんだと思います。

ただ一つ,彼の意見で納得できるのは,死語の生命というのは,現世の生命がそのままの形で続くのではあり得ないという事です。また,魂が肉体から別れて独立に生き続けるという考えもキリスト教的ではないそうです。

キリスト教の表現の一つに,「死んでキリストと一つになる」という表現がありますよね。キリストを神の一格と信じるなら,つまり神と一体になるという事になります。

とすると,神の永遠性を信じるなら,人間の生命の永遠性も信じなければならないという三段論法が成立します。

ただし,キリストと一つになった生命というのがどういうものかは,議論の余地があり,私には正直,わかりません。
heavenさん

私も、ちっちゃいころは、ビックバンの神の一撃の介在を納得していました。
でも、数年前の最新宇宙論では、ベビーユニバース論では、宇宙は別の親宇宙から生まれた、無からの宇宙論では、場の揺らぎから生まれたらしいです。

その後も変わってそうだけど。
皆さんありがとうございます。

「永遠」とは時間がいつまでも続く事ではなく
      時間が終わる事。
それが終末論の本質であると了解してます。

こんなことが昔ありました。
ドイツのある教会の裏手にある納骨堂に入ったことがあります。
なかに入るとすごい数の髑髏と骨がぎっしり規則正しくつまれていました。そのかびた匂いと薄暗いなかに黄色く光る骨に、不気味さを感じました。
ドイツ人の神父が説明してくれました。
「ここにあるのは何百年にもわたるこの町の人々の骨です。死んだら一度埋めて、数年後掘り返して、骨をここに積み重ねていくのです。」
「なぜですか?」
「キリスト教では死後の身体のよみがえりを信じています。終末に身体がなければ困るでしょう? 火で燃やして灰にしてはいけいのです」
「彼等は終末にここでよみがえると信じていたのですか?」
「そうです」

納骨堂とはこういう考え方のものです。知っていましたか?
それは仏教的な「遺骨」の観念とはまったく違います。
こういう考え方は、私には不自然で受け入れにくいものです。
永遠の命を「天国に入ること」とするなら、了解できるのですが。
「身体のよみがえり」は、大きな壁です。 
もし、英語が得意で、小難しい本を読むことが好きなら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/0802806805/sr=8-5/qid=1159459769/ref=sr_1_5/503-9815969-9971940?ie=UTF8&s=gateway

この中の「永遠のいのち」の項目を参照されるのがよいと思います。

-----------
そうでない方のために、参考まで
 聖書において 永遠のいのち 特にヨハネの福音書でいうところの 永遠のいのち は、他の福音書でいうところの、神の国 という言葉と互換性のある意味合いを持っているようです。
 もっと砕いて言うと、永遠の存在たる神とその御支配の中で神さまと共に歩むことですね。

 だから、永遠という言葉が指すのは、みなさんが考えられているように、単純に時間的にずーーーと、という事に限定されないようです。
 だから、 永遠の命をもつ。 ということは、神の国の民になる。 ということ、非常に近い関係のようです。

 ちょっと漫画チックな表現になりますが、誰かとても大切な人と一緒にいる時間。この時間がずっとあったらいいのに。 と思ったことはありませんか?

 永遠のいのちを持つ。 神の国の民となる。 神の子とされる。 ということは、私たちが神さまとまさにそのような関係、一緒にいることを感謝し、喜び、いつも一緒にいる関係になる。 ということです。

さばきの時の話があがっていましたが、黙示録には最後に新しい天と新しい地の描写があります。その中に

21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

という聖句があります。これはまさに、永遠をいのちをもつこと、神の国の民として歩むことの描写といっていいと私は思います。

すばらしいと思いませんか?
終末思想というのは、さばきを待ち望む思想ではありません。
もちろん、さばきもそのプロセスの中にありますが、それは途中のことであって、最終的に待ち望むのは、この永遠のいのちを持つことです。

---------
ついでに、先日、さばきについてとても良い説明を聞きました。

神さまば終わりの日に裁かれるということは、神さまが今までご自身を無視してきた民に報復し、悔い改めた民を優遇するということではない。

神さまは無条件で、誰でも、どんな罪人も神の国に入る門をイエスの血によって開かれた。

さばきは、その開かれた門に対して各々がした選択のそのままの結果(報い)を受けるだけです。

 神さまと共に歩むことを選んだものには、永遠のいのち、つまり、神と共に住む結果を受ける

 神さまと共に歩むことを選んだ者は、永遠に神さまから離れる結果を受ける

 それが、最後のさばきだ。

なるほどな。って思いました。
 聖書の中の、終末の教えの中に、身体のよみがえりがあること自体は確かです。
 永遠のいのち という言葉とは、まったく関係なくはないですが、混ぜると複雑になったので説明は省略しました。

 簡単にいうと、聖書の概念では、人とは霊だけの存在をさしていません。(一時的に離れることはありますが)霊と身体のふたつを持って人です。そうじゃなければ、イエス様がわざわざ受肉して、肉体的に十字架にかかって死ぬ必要はなかったでしょう。
 人とは霊肉ともにある存在であるのなら、最終的に神と人た共に住む。永遠のいのち というとき、そのプロセスの中で身体の蘇りが必須になります。

 が、終末に復活する身体というのは、生前もっていた、今、私たちが持っている体とは違うものです。

ピリピ人への手紙にはこうあります。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 この栄光のからだが実際どういったものなのかは、想像はできますが、具体的にはなんともいえません。

 理屈であれこれ説明できる類のものではないですね。
 ただ、私は復活を信じていますが、別に骨をとっておいたりする必要は私個人としてはないと思いますけどね。
>私も、ちっちゃいころは、ビックバンの神の一撃の介在を納得していました。
でも、数年前の最新宇宙論では、ベビーユニバース論では、宇宙は別の親宇宙から生まれた、無からの宇宙論では、場の揺らぎから生まれたらしいです。
その後も変わってそうだけど。

トピ内容とは脱線しますが。

僕もホーキングの説とかは本で読みましたけど、素人の僕として言えるのは。

宇宙の始まりと時空の始まりは、人工衛星からの観測やアインシュタインの法則からほぼ証明できることであるのに対し、
場の揺らぎとか、真空の揺らぎとか、親宇宙とかの考えは、なんらかの観測や数学的証明がまだ出来ていない仮説の領域・・・ではないかと。・・また教えてくださいね。
>Syakuraさん
1コリント15:44に「御霊のからだ」という表現がありますが
これも何か関係があるんですかね?

他にも「天上のからだ」という表現もありますし…
「神は霊です」とぶつけて考えると
俺にとって理解に難しい場所です ( -ω-)
>ウリさん
> 命は永遠に必要でしょうか?
> かぎりある命だからこそ、生きている瞬間をいつくしむこと> ができるのではないでしょうか。個々の命は永遠ではないけ
> れど、もっと大きな命の「流れ」が気の遠くなるような時間
> の中で、続いていくのではないでしょうか。

 命が永遠に必要なものかどうか,といえば,われわれ人の間では少なくとも必ずしも必要なものではない,といえますね. なぜなら,現に他者のために犠牲になる人(特攻隊にせよ大久保で線路に落ちた人を助けようとして自身が轢死した人にせよ)がいることにとどまらず,自死する人がわが国だけでも毎年3万人近くでていることで,明らかです. ( 神なり宇宙人人間資材管理部担当なりにとってどうだかは,わかりませんが. )

 そして,自己の生命の永遠の継続を第一義的に願う,というのは,自己の(さまざまなうれしい事が生じられたりする基体の永続を願うことですから,他の何にもまさってエゴを最高の欲求対象とするエゴイズム――それの倫理的善悪は判断停止しておくとして――である,と私には思われています.

 さらに,「個々の命は永遠ではないけれど、もっと大きな命の「流れ」が」とある,個々の命は永遠でないどころか,あくまで私たちの意識と言語慣習とが数十年継続する対象としてその存在継続の条件についての了解を有しているから「永遠ではないけど<一定年数続く>」のでしかなく,別に,一刹那毎に異なった命が,○○さん(氏名を任意に挿入してください)が生じては消え,生じては消えしていてもよいのです. ですから,>限りあるが一定時間継続する命,は,あくまで,社会的虚構物・構築物だ,というのが私の見解です. 

 「大きな命の流れ」については,何をもって>大きな命の流れ<とするかについて,十全な社会的了解も存在しないし筆者であるウリさんからの定義・基準も示されていないので,コメントできません. ただ,>命<を,われわれが個体化された一個の生物学的生命体の継続の限りその帰属・存在をわれわれがその個体について認めるところのもの(の或いは下位概念),であるとすれば,同様に,我々が生物学的個体より長期間――かつ/あるいは広域――にわたって継続・存在する個体を措定し,それに>命<を帰属することは可能である,但し,その場合の語「命」の語義は日常使用されるという語「命」と相違する同音多義語であろう,とはいえ,生活実践上類比的に見なして支障がない限り(あるいは分野では),ほぼ同一なものとして扱って問題はあまりなかろう,とのが私の意見です.
> 12: ふにゃ さん
> 1コリント15:44に「御霊のからだ」という表現がありますが これも何か関係があるんですかね?
 そうですね、終末における復活という文脈の中にあれば、表現は違いますが、やはり先に書いた栄光のからだのことだといえると思います。

>「神は霊です」とぶつけて考えると
私たちの終末における復活は、実はこれとはぶつかりません。
なぜなら、私たちが復活するということは、私たち人が神化するということではないからです。

人は、人として霊と体をもった存在として復活することを聖書は教えています。

ある意味で、聖書における、復活というのは、救いのもう一つの表現です。
イエス様が全ての罪人の身代わりとなって死んでくださった。
ということは良く聞きますが。
イエス様の復活は、それによって私たちに義を与えてくださるものです。

ローマ人への手紙にはこうあります。
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

なぜ、義とみとめられるために蘇らなければいけないのでしょうか。
聖書的には、死というのは、罪の報いです。
私たちがイエス様の十字架の死を自分のものとするとき、私たちは罪人として同じように死んだことになります。

しかし、それだけだと死にっぱなしですね。いのちがありません。
よみがえることにより、命を持ちます。
それも罪人が蘇るのではなく、神さまの前に罪のないものとして新しい命をもったものとしてです。

だから、聖書では、キリスト者を新しく造られた者といったり、教会で救われることを新生する。といったりします。

神さまの前で罪人としてその責めを負うのではなく、罪を負っていないものとして立てる。というのが義と認められるということです。

それは、人が本来あるべき姿、罪を犯す前の姿を回復すると考えても良いと思います。

ここで先に書いた人の定義、神は霊だけど、人は霊だけの存在ではない。体が与えられた存在である。肉と霊をともに持つものが聖書的な人の定義であるのなら。

人の本来のありかたの回復という意味での救いを考えるとき、霊だけが新しくされるというのは、完全でありません。
その意味でも体も復活しなければならないことになります。

聖書が教える救いというのは、霊だけ、心だけの救いではありませんん。人として、霊も体も救われる。本来あるべき姿を回復し、神さまから祝福され、罪による穢れがない存在として新しくされるという包括的なものです。

 聖書によればイエス様は霊だけ復活したわけではありません。弟子たちと共に食事をし、触ることができる体をもった存在として復活をされました。
 私たちがこの方の復活を信じるということは、霊も肉も完全な人として本来の姿を取り戻す。新しいいのちを持つということです。

しかし、パウロがローマ書7章でいっているように、今のからだにあっては、罪をおかしたくないのに犯してしまう。正しいことをしたいのにできない。という葛藤を持っています。
 それでも、信じることによって与えられた聖霊によって私たちが神の子であるということは保証されています。霊は新しくされていますが、体がまだなのです。

 だから、終末において、永遠のいのちを持つとき、完全に神の国の民となるとき、からだも復活することが約束されています。イエス様の復活はその初穂です。

 これの意味することは、人に与えられている体というものは、本来、神さまが創造された当初は、悪いものではないということです。ただ、人が罪を犯した後、このからだは神の栄光をあらわすより、むしろ逆らうことに用いられるようになってしまっているわけです。

 ちゃんと体をもって、正しいことを思ったとおりにすることができる。罪なること、嫌だと思っていることを思ったとおりにしないでいられる。ってすばらしいことだと思いませんか。

 聖書が教える復活の約束は、霊だけじゃない、心だけじゃない、体も、人として本当の自由を行使できるというすばらしい約束です。

 だから、そういった意味もあって、復活のからだは今のからだとは違うものです。
 
そうですね。
 復活のときのからだの具体的な詳細は確かに聖書で教えられていません。

15: chohsuke さん
が、おっしゃるように、復活のことが意味することは、キリストと、神さまと共にある喜びの中に入れられる。

という理解で私も良いと思います。
 新約でもイエス(−ス)を含め生前の心身はソーマ(心)とサルクス(肉)とで表現されていますが,復活後のイエス(ース)などには,彼の心身とくに身についてソーマ(霊体などと訳されますね)が用いられたりします. また,史実性は全く疑わしいにせよ,『伝ルカ福音』でのエマオの旅人のエピソードでも,イエス(ース)に面識がある人々がそれと示唆されるまで一緒に話しているのがイエス(ース)だと気づかなかった事からも,復活後の>からだ<というものが,我々が通常考える身体とは大きく異質なものだ,と考えている人もおり,私もそう思います. 少なくとも,同書の著者は,復活後のイエス(ース)の身体が,あれほどその身体の現実性を強調使用としているにもかかわらず,何か大いに生前のそれとは異なることを前提にしている,としか私には思えません. 従って,イェルサレム原始教団やパウロスの理解ではもちろん,新約聖書の諸文書の水準でも,イェス(ース)と或いは彼同様復活するであろう時の他の人々の>からだ<が,我々の通常の概念での身体と大きく異質なあり方の何かだ,というのは,かなり共通理解に近かった,というのが私の意見です.
 但し,その後のキリスト教会は教父の時代に早くも「からだの蘇り,永遠の命」「死者の復活,および来世の命」は,この世の物質的身体にかな類似したもの,と考えられるようになってきている,というのが私の意見です. そうでない立場は,多く,物質性否定の路線――俗にいうグノーシス的傾乃至ネオ=プラトニズム的傾向――の表現をとるようになり,>このありかたでではないが物心両面の復活・救済<ということを強調する立場は次第に衰えていっているように思われます――それでも,万物更新説などに存在論的変容の基での物心両面の維持・救済論は残りますが,キリスト教思潮の主流ではなくなっていく傾向にあった,というのが私の認識です.
うぎゃ〜みなさんすごい!神学者のようです。
私はクリスチャンですが難しい事は上手に表現出来ません。
これって不信心?
>Syakuraさん
なるほど…
スッキリ!とは言えませんけど、勉強になりました。
ありがとうございます (´ω`)


>白飴姫さん
復活後のイエス様には髪の毛がなかったとか…
いや、復活前からなかったかもしれませんけど。
それ程、天国に行くのはめちゃめちゃ難しいんだと思います。
簡単に信じれたら全員天国行ってますね(笑)
> 20: ふにゃ さん
 どういたしまして、あまり分かりやすく
表現できなくてすみません。(^^;;
 少しずつ神様に理解が導かれることを祈っております。

> 21: GRP さん。
そうですね。何か小難しいことを行うんじゃなくて、
信じるだけだから、簡単なはずなのに難しい。
 人間的には凄く難しいんだけど、救われる。
 まさに、神業ですね。

全員が天国にそしたら本当に素晴らしいことですよね。
>19: ともみ さん
順番が逆になって失礼(^^;;

うまく表現ができなくてもかまわないと思います。
神様の御業ですからね。
奥深くて、難しくて、表現しずらいのは当然だと思います。

不信心なんて、とんでもない。

知識があれば信仰者として素晴らしいなら、
パリサイ人や律法学者は立派な信仰者でした。
イエス様の基準ではそうではないですよね。

逆に、私みたいな知識ばっかの人間が神様から遠いところに立ているのかもしれません。(^^;;
それでも、愛されてるので感謝です。
Syakuraさま ありがとうございます。安心しました。イエス様を信じて、頼って、愛してます。それだけなんです。
いろいろ論じられる皆様が羨ましいです。
さまざまなお考えを読ませて頂き大変勉強になります。
イエスが教えられたように明日摘まれるかもしれない野の花も思い煩うことなく今を精一杯生き、花を咲かせている。
イエスを信頼してともに生きていると信じる人はすでに永遠の命に入っているということだと思います。

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