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富岡多恵子コミュのちくま文庫 「男流文学論」

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富岡多恵子女史はもちろん、
フェミニズムの旗手、上野千鶴子さん、
骨太で芸達者なフェミニスト、小倉千加子さん

が、吉行淳之介をはじめ、島尾敏雄、谷崎潤一郎、小島信夫、村上春樹、三島由紀夫の作品をガッツリ批評、批判している、めちゃめちゃ面白い一冊です。

特にアタシは村上春樹が何故面白くないのか、という議題に対して、お三方の意見を読み、凄く納得しました(笑)

だからアタシは村上春樹嫌いなんだーと気付きました。


お三方の豊富な知識や見識、フェミニストな意見に女性なら「してやったり(笑)」と思うかも。


453Pで920円(税抜き)。

読んだ方がいらしたら、是非感想を聞かせてくださいm(_ _)m

未読の方は是非、お読み下さい(*^o^*)


個人的には富岡多恵子女史の
「そうよ、だってわたしタエ子だもん」
が、可愛いくて好きでするんるん

コメント(13)

>>[001]

そーなんですよ、そーなんですよexclamation ×2

富岡多恵子女史が入って語ることで、ただの悪口や批評じゃなく、ちゃんとした文学論になってるところがすごいですよね目がハート

最近は散文作品より批評が多い富岡多恵子女史ですが、この時からその頭角が現れてますよね。

ただのジェンダー、フェミニズムに終わらない内容だったので面白かったですハート
はじめまして。

富岡さんのバランス感覚が素晴らしいと思いました。

富岡さんに較べると上野さんと小倉さんは理論先行型だと思ってしまいました。

しかし、あとがきでも言われている通り、3人じゃなかったらここまで面白いものにはならなかったと思います。

富岡さんと上野さんだったらギスギスするだろうし、富岡さんと小倉さんだったら富岡さんの講義になるだろうし、上野さんと小倉さんだったらここまで議論が拡がらなかったと思います。

ノルウェイの森は僕も嫌いだったので、読んでいて痛快でした(笑)
あとは、「三島由紀夫は結婚に殺された」という意見と「吉行淳之介は女がわかってない」という意見が面白かったです。

僕は吉行ファンなんですけど、本文中の意見には納得してしまいました(笑)

編集の藤本さんは、後の評論活動の片鱗が見えて、それも面白かったですね。
>>[003]

そーですよねわーい(嬉しい顔)

あの3人だからこそあの珠玉の名作(笑)が出来たんですよね。

吉行淳之介は最初から最後まで小倉さんに「気持ち悪い」って言われてて、批評対象が変わっても、「吉行よりは読めた」とか「吉行よりは女を分かってる」って、ずーっと出てくるのが、いつも笑えましたウッシッシ

編集の方の話の脱線や沈黙を方向転換、修正、鋭いツッコミに「やるな」と思ってました。

男性で読んだ方が面白いと言う意見が聞けて嬉しいでするんるん
>>[4]

返信ありがとうございますわーい(嬉しい顔)

3人だからこそ出来たと思います。

小倉さん、そんなに吉行嫌ってたんですねあせあせ
小倉さんは三島のパートで頑張ってましたね。

男の僕から見ると、上野さんはちょっと怖いなあ・・・って感じですね(笑)
富岡さんは馬鹿な男はもちろん嫌いなんですけど、馬鹿な女も同じくらい嫌いなんでしょうね。
だからバランス感覚があるな〜と思ったんです。
>>[7]

男から見ても面白いですよわーい(嬉しい顔)

まあ男はみんな女を理想化しますからねえ。
吉行の女性像が一番カンに触ったんでしょうね(笑)
批評されている作品の中では、小島信夫『抱擁家族』が一番マシみたいですね。

この本の中で富岡さんが推薦している宇野浩二『子の来歴』を読みました。
この作品は『大阪文学名作選』にも入っているので、かなり富岡さんは好きみたいですね。

で、感想なんですけど・・・なにが面白いのかわかりませんでした・・・冷や汗
地味な私小説という感じでした・・・

フェミニズムという言葉は一応あったみたいですね。
ただ、富岡さんはフェミニストなのか、僕はよくわからないですねえ。
とりあえず上野さんとは異質なものを感じます。
フェミニズムはもともとマルクス主義から派生したものだと思うんですけど、富岡さんからはマルクス主義のにおいが全然しないんですよね。

富岡さんの『芻狗』っていうのを読んだんですけど、これ、なんというか突き抜けてるなあと思いましたあせあせ

上野さんは、全てに容赦無さそうなところがちょっと怖いですね(笑)
>>[009]

「芻狗」
学士論文は「波うつ土地」でしたが、「芻狗」もゼミで論文にしたので少し書いてみます。
前提として、ゼミ教授の「作者と作品を一緒にしてはならない」を挙げておきます。
よく「作者がこう思っているから作品でこう言いたかったのではないか」と書く人いますが、ゼミ教授に言わせれば、「あんた何様(笑)」だそうです。作者が何を考えているかを作品から察してこうだと言い切るのは「愚の骨頂」らしく、何を思って書いたかが重要なのではなく、何があなたに伝わったか、が重要なんだそうです。アタシもそう思って書いたので、アタシ個人が「芻狗」から受け取った感覚や思考を書くだけですので、意見が違ってもそれぞれの価値観ってことで、よろしくです。


芻狗→芻が藁や草を束ねたものを表す。または草を食う獣。狗は犬を表すが、いやしいものをたとえて用いることがある。
講談社文芸文庫272頁後ろから4行目に
「祭りのあとのワラ人形のように燃やされた。」
とある。

作品の流れから見る芻狗
→人間の性に対する一般論「愛情などが含まれる」と対立するような行動と思考。
肉体の関係はもっと原始的で且つシンプルなものであるとする一人称主人公××。
しかしそれは性欲ではなく最も単純なコミュニケーション方法。
性欲は生物の子孫存続させるための「衝動」であり、快楽はその「衝動」が引き出されやすく、求め続けるために加えられた「褒美」または「餌」。
性欲ではないセックスを求めることは肉体組織との対立。
何度も表現される、『男性器が女性器に「あっと驚くほど簡単に」結合されること』は、セックスという営みには世に言われるような様々なものは具体的に「何もない」と嘲笑しているように受け取れる。
277頁前から10行目、「ヒトに子供が生まれないと早く終わっていいな」と思うと同時にそれが反社会的であることを自覚している。

総評
→異性間コミュニケーションの最終地点は性交ではない。
若い男との性交を繰り返すのは、老いの見せつけなどによって相手を挫くことを目的としている。そうすることで跳ね返ってくる「老いていく自分」を自虐している。
「老いていく自分」は祭りのあとにいて、燃やされるのを待たされている人形、または獣と重ねている。

ま、こんな感じですかね(^_^;)
レスありがとうございます。
この機会に読み返してみました。
本当はもっと早く書く予定だったんですが、なかなかまとまらなくて。すみません・・・あせあせ

男流文学論でもp419で『芻狗』に関して語られていますよね。
あと、p412で小倉さんが
「非常事態になると普通の恋愛でもパッとやってパッと別れるという即物的行為になる」
という内容のことを言うと、富岡さんが
「全部こそぎ落として、何もないと、そういうふうに即物的になってしまう。私の望むところだなあ」
といっています。

この言葉は「芻狗」を考える上で重要なんじゃないかと思いました。

というのも、「芻狗」はそういった意味で凄く即物的だと思うんです。

で、感想なんですが、まずこの文体ですね。一人称複合過去形。これはハードボイルドや推理小説に多い文体で、非常に乾いた印象を与えます。ラストで現在形になるんですが、語りのテクニックとしてうまいと思いました。だんだん時間が物語に追いついてくる形になってますね。

主人公の男に対する発言は相手の出方を試しているようなものばかりです。
まるで宇宙人が人間のオスの思考を分析しているみたいに僕には思えました。性交の描写も自分の体が性交できるように作られていることを確認しているみたいで、味気ない。

要次との場面で、「性交のための部屋にふたりをぶち込んだのだった」
という文章がありますが、ここでは自分をまるで他人みたいに書いていますね。凄く自虐的だと思いました。
この文章のちょっと先に
「見知らぬ男と女には、性交ぐらいしか、さしずめすることはないのであった。」
という文章がありますが、ここは読んでて凄いな〜と思いました。現在の出会い系を予言しているかのようです。

「わたしは、性交によって、肉体によって、相手と自分の肉体のなかの肉体でない部分を知ろうとしている。」とありますが、主人公は性交それ自体には興味がなく、コミュニケーションにのみ興味があるということが読み取れます。しかし相手はそんなこと理解不能なので、チグハグなやりとりの末、変人扱いされてしまいます。結果的にコミュニケーション不全を起こしているのが面白い。

主人公は性愛幻想にまったく興味がないのだと思いました。
僕は「芻狗」で燃やされているのは、性愛幻想だと思いました。(性愛幻想というと曖昧な言葉ですが、「肉体的接触による気分の高揚および生の充足という物語」くらいの意味です。)

野暮なことを言って主人公に迫った俊介の性は「燃やされた」のではないかと・・・

富岡さんは文学的実験をしたのだと思います。「性愛幻想が焼けつくしたあとで、男女のコミュニケーションはいったいどのようなものになるだろうか?」という設定で。

その結果は、非常に荒廃した風景が広がっていたということだと思いました。
主人公は幸せと思えないし、あまり楽しそうとも思えないんですよね。ただ、生の実感を感じてはいる。
自虐というのは、ネガティブな意味で生の実感を得る為にしているのではないかと思いました。

最後のお店に男達が飲み込まれていく場面を読むと、お店は「子宮」のメタファーなのかなあと思ってしまいますが、男流文学論の三人には笑われるかもしれません。
「いかにも男が考えそうなことね」みたいな。うれしい顔
出版された直後に読みました。叩きやすい相手(いずれも小物)ばかり取り上げた感じ。できれば、富岡多恵子だけ、で批評して欲しいね。折口信夫、とか、室生犀星。。詩人歌人であり作家、こういう表現者を論じたら富岡の右に(左に?)でるものはいない、とおもいます。 わたしに無断で芸術院会員になっていました^^。

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