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クリシュナムルティコミュの愛着の放棄

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『愛着障害』〜子ども時代を引きずる人々〜 岡田尊司著 p182 より引用

 第三章 愛着障害の特性と病理(の最後の節)
 独創的な創造性との関係

 愛着障害についてのケースをたどっていくと、すぐに気づかされるのは、作家や文学者に、愛着障害を抱えた人が、異様なほどに多いということである。夏目漱石、谷崎潤一郎、川端康成、太宰治、三島由紀夫という日本文学を代表する面々が、一様に愛着の問題を抱えていたというのは、驚くべきことである。ある意味、日本の近代文学は、見捨てられた子どもたちの悲しみを原動力にして生み出されたとも言えるほどである。
 文学以外にも、芸術の分野で名を成した人には、愛着障害を抱えていたというケースが非常に多い。ある意味、そこからくる「欠落」を心のなかに抱えていなければ、直接に生産に寄与するわけでもない創作という行為に取りつかれ、人生の多くを費やしたりはしないだろう。書いても書いても癒やし尽くされない心の空洞があってこそ、作品を生み出し続けることができるのだ。
 芸術の分野以外でも、政治や宗教、ビジネスや社会活動の領域で、偉大な働きや貢献をする人は、しばしば愛着障害を抱え、それを乗り越えてきたというケースが少なくない。愛着障害の人には、自己への徹底的なこだわりをもつ場合と、自己を超越しようとする場合がある。実はその二つは、表裏一体ともいえるダイナミズムをもっている。自己へのこだわりを克服しようとして、自己超越を求めることは多いが、同時に自己に徹底的にこだわった末に、自己超越の境地に至るということも多いのである。
 彼らの行動や思考が、独創性や革新性をもたらすということは、彼らが「親という安全基地をもたない」ということと深く関係しているように思える。親という安全基地に恵まれ、安定した愛着を築いて、それに保護されながら生きていくことは、確かに安全であるし、社会にうまく適応するチャンスを増やすだろう。その方が、ずっと生きやすい人生を保証してくれるのである。それに比べて、親という安全基地をもたず育った人は、いきなり社会の荒波に放り出されて生きてきたようなものであり、その困難は大きい。
 しかし親という安全基地は、しばしばその人を縛りつけてしまう。そこが安全であるがゆえに、あるいは、親に愛着するがゆえに、親の期待や庇護という「限界」にとらわれてしまうということも多い。そして、親が設定した「常識」や「価値観」にかんじからめにされ、常識的な限界を超えにくいのである。
 ところが、愛着が不完全で、安全基地をもたない場合には、そこに縛られることがないので、まったく常識を越えた目で社会を見たり、物事を感じたり、発想することができやすい。これが、独創性という点で、大きな強みを生むのである。
 もちろん、なかには、親との間の愛着が不安定であるがゆえに、何とかして親の愛情や承認を得ようと、親の期待に過剰に服従するというケースもある。だが、人間の心というのは、そう単純にはいかないもので、表面的には服従していても、心のなかには、どんどん割り切れない剰余が積み重なっていく。まさに、その部分が、皮肉な視点で物事を見るということにつながる。つまり二面性を生む。この二面性が、人間が本然的に抱える矛盾を際立たせ、自己や社会に対する否定的な気分となって、ネガティブに作用することもあれば、個性的な着眼につながるというプラスの作用を及ぼすこともあるのだ。
 創造とは、ある意味、旧来の価値の破壊である。破壊的な力が生まれるためには、旧来の存在と安定的によしみを結びすぎることは、マイナスなのである。親を代表とする旧勢力に対する根源的な憎しみがあった方が、そこから破壊的なまでの創造のエネルギーが生み出されるのだ。
 その意味で、創造する者にとって、愛着障害はほとんど不可欠な原動力であり、愛着障害をもたないものが、偉大な創造を行った例は、むしろ稀と言っても差し支えないだろう。技術や伝統を継承し、発展させることはできても、そこから真の創造は生まれにくいのである。なぜなら、破壊的な創造など、安定した愛着に恵まれた人にとって、命を懸けるまでには必要性をもたないからである。
 なぜ漱石は、内定していた東大教授という安定した地位をなげうって、当時は弱小新聞だった東京朝日新聞の記者となって不安定な新聞小説家という道を選んだのか。
 なぜ谷崎潤一郎は、東大を中退し、海のものとも山のものとも定かでない作家活動に飛び込んでいったのか。
 なぜスティーブン・ジョブズは、大学を中退してドラッグやインド放浪という当てどのない遍歴を繰り返したのか。
 なぜバラク・オバマは、コロンビア大学を卒業した後、一流企業に就職する道を選ばず、報われることの少ないソーシャル・オーガナイザーとして活動することにしたのか。
 彼らの創造的な人生の原点にあるのは、既成の価値を否定し、そこから自由になろうとしたことである。彼らにそれができたのは、彼らが内部に不安定な空虚を抱え、常識的な行動によっては満たされないものがあったからだ。そして、その源をさかのぼれば、愛着の傷ということに行きつくだろう。それが、彼らを社会的な常識から解放し、新しい価値を手に入れる旅へと駆り立てたのである。
 −−− 以上引用 −−−

 この著作では、仏陀も生後間もなく母親と死別したがゆえに、愛着障害であった旨、記されています。
 クリシュナムルティに取り組むには、最終的には、愛着を放棄する必用があるのでしょうか。

 愛着障害とは、詳しくはネットで調べられます。生後6ヶ月から1才半までに母親もしくは養母と愛着形成がなされます。母親や養母(養父は不可)が内面での安全基地となるのです。その間に母親との死別や生き別れ、あるいは子ども虐待等で愛情を充分に得ることが叶わなかった子どもは、愛着形成が不充分となります。これは重度から軽度まで多様にあり、軽度まで含めると、本国では3人に一人が(広義の)愛着障害となります。
 重度になると、脳機能の発達が遅れ、自閉症やADHD等の発達障害と同様の言動を為します。それゆえに愛着性発達障害と呼ばれることもあります。発達障害と愛着障害の見分けは、5〜6歳以前に、善良な環境(善良な里子等)に戻せば、十年以内にはほぼ完全に回復することが、発達障害と異なるところです。

 著者紹介
 岡田尊司(おかだたかし)
 1960年香川県生まれ、精神科医、作家、現在、岡田クリニック院長(枚方市)。山形大学客員教授。東京大学文学部哲学科中退、京都大学医学部卒、同大学院高次脳科学講座神経生物学教授室にて研究に従事。

 仏陀についての記述の部分

 第三章 愛着障害の特性と病理 p169 安住の地を求めてさまよう の節 より引用

 愛着障害の人のなかには、出家や放浪を繰り返す人がいる。度重なる引っ越し、旅といったものと縁が深いケースも少なくない。もっと長じてから、出家をしたり、遁世をしたりというケースもある。
 実際、出家・遁世をする人には、愛着障害を抱えた人が多い。その代表は、ゴータマ・シッダルタ、すなわち釈迦である。
 釈迦の母親は、彼を産んだ直後に亡くなった。ちょうどルソーの母親と同じように。釈迦は、ルソーが感じていたのと同じように、自分の出自が、その出発点から、母親の命と引き換えに与えられたものであり、そのことに罪の意識を感じていたに違いない。
 釈迦は、自我に目覚め、自らの出自について考える青年のころから、物思いに耽るようになる。その憂いを晴らすことができればと、王である父親は釈迦に妻をめとらせ、子どももできるが、釈迦の心の沈鬱を取り去ることはできなかった。釈迦はついに出家して、王子の位も、妻子も捨てて、放浪の旅に出てしまうのである。
 その根底には、母親というものに抱かれ、その乳を吸うこともなく、母親との愛着の絆を結ぶこともなく、常に生きることに違和感を覚えながら育ったことがあったに違いない。それは、愛着障害に他ならない。ルソーが、甘やかされて育ったにもかかわらず、やがて自分の居場所を捨てて、遍歴の旅に出てしまったのと、その根底に起きていることは同じなのである。
 幼い子どものころは、なにがしかの違和感や居心地の悪さを覚えていても、周囲の大人の庇護にすがって生きるしかなく、それなりに育つのだが、青年となって自分の考えが明確になり、行動力も培われてくると、もはやその場所に留まってはいられなくなる。そこは自分の居るべき場所ではないと感じ始め、漠然とした救いを求めて、自分を縛る現実から脱出しようとする。自分を受け止め、癒してくれる存在を求めようとする。それは、大きな意味で、母なる存在と言えるかもしれない。ルソーのように母親的な女性が、助けとなってくれることもある。
 釈迦の遍歴においても、母親的な女性との出会いをみることができるが、それは、性愛的な煩悩が超越した慈愛へと高められ、それに一体化することで、悟りに至る。それは、釈迦が母親の愛として求めたものの、究極の形だったのではないだろうか。
 −−− 以上引用 −−−

コメント(28)

このトピでの問いかけの詳細が分かりにくいかもしれません。

 詳細は、ゴトの読書室 → 掲示板(「雑感」) → [10592] Re:[10591] マドラス講話を読む2−3 をご参照頂ければ幸いです。
3行で回答されるとはお見事です。「放棄」は思考MEの行為ですものね。Kを本当に知っているのかしら。
ゴトの読書室の掲示板(「雑感」)では、ただ今、読書会の様に進んでおります。

 このトピの主題が分かりにくいかもしれないので、詳細は、ゴトの読書室 → 掲示板(「雑感」) →[10650]Re:[10647] マドラス講話を読む 2−7  をご参照頂ければ幸いです。
おおよその、私なりの見方が整いました。

 ゴトの読書室 → 掲示板(「雑感」) →[10664] Re:[10647] マドラス講話を読む 2−7  をご参照頂ければ幸いです。
しかし、私の見方は、すぐにひっくり返りました。

 ゴトの読書室 → 掲示板(「雑感」) → [10668] Re:[10665] [10664] [10647] マドラス講話を読む 2−7 をご参照頂ければ幸いです。
 このトピの主題を改めて述べてみます。

 母子間(又は養母間:養父は不可)に6ヶ月以降1歳半までの愛着形成によって獲得された「内的安全基地」を足がかりに、父親や兄姉・姉妹との間に愛着形成が拡大して行く。そして学齢期には、更に愛着形成が拡大し友情へと幅を広げて行く。同伴者を得てからは、同伴者へ「内的安全基地」が移行する場合もある。

 この愛着は、観念・信念か?それとも、クリシュナムルティの述べるところの「愛」か?どちらか?

 これが私の知りたかったことです。

 その件について、ゴトさんの掲示板で、あれこれやりとりをして、やっと落ち着いたところです。

 初め、「愛着形成」「内的安全基地」の意味が伝わらずに、その返答が錯綜したこともありました。

 そのため、コメント番号[4]・[5]のような紆余曲折を経ました。

 そして、落ち着いたところが、私の愛着の場合、反対物があり、中心があり、快楽原理があるがゆえに、それは観念・信念かもしれない。少なくとも、クリシュナムルティの述べるところの「愛」ではない。

 しかし、ゴトさんや新しい芽さんは違った。

 私は、ゴトさんや新しい芽さんを、私と同レベルにクリシュナムルティ理解を成していると勘違いしていた。

 彼らは、ほぼクリシュナムルティ理解を達成しているように思える。

 彼らの愛着は、執着ではなく、「愛」そのもの、すなわち、クリシュナムルティの述べるところの「愛」であるように思える。

 文字数が多くなったので、愛着形成と内的安全基地の資料を、次の投稿で示します。尚、この資料はゴトさんの掲示板へ投稿したものです。お許し下さい。
 愛着形成を説明します。筑波大学人間系長 宮本信也 教授・小児科医 作成資料より抜粋
 

「一次的愛着」
◎心の安心や慰めを必用とするとき、優先的、選択的に求められる人との親和性。
◎対象は、通常、親、特に母親(父親は不可)
◎一次的愛着対象の役割
・養育者:身体・情緒・精神的欲求への応答
・保護者:安全を守る
・指導者:環境に関する情報提供と限界設定
→上記三者の役割を、一般的には母親が一人で担うことが多い。


愛着の発達

◎乳児期
・一次的愛着形成の時期
・乳児と養育者双方に、準備・期待・実現性があると最適に形成。
・身体的、情緒的満足感が基本

◎幼児期
・家族、親族との愛着形成の時期
・幼児と養育者の要求と能力の変化に応じた関係の適切な調整により愛着が発展。
・一次的愛着との関係(母子間の関係)を促進する大人(父親や他の親族)への愛着形成。

◎学童期
・愛着機能の内面化開始の時期:家族の外へ目 → 母が今ここに居なくても、内面に母による安全基地があることをへの安心。
・家族の他の集団所属体験により促進。

◎青年期
・一次的愛着機能の内在化の時期 → 母以外の存在に対しても愛着対象が普遍的に広がる。
・仲間との関係により促進。

◎成人期
○愛着機能の成熟の時期
○パートナーや自分の子どもとの愛着形成。
・パートナーや自分の子どもに対して、自分が自分の親からしてもらったように、されたように同じことをしてしまう傾向がある。→ 愛着の世代間伝達

 愛着形成は相手とのスキンシップ刺激が最大の効果を発揮する。よって、パートナーとのスキンシップ刺激が愛着形成を充実したものとして育むことになる。


 上記が内的安全基地の形成過程である。この内的安全基地が機能すれば、安定した情緒と仲間への愛着を伴って、同じく安定した愛着形成が成された存在と、共に、相手と適切な距離を保ちながら、友情や尊敬、感謝の和を長きに渡って維持することができる。


 これに反して、愛着形成が傷を受ける場合がある。母との死別や生き別れ(特に生後6ヶ月〜1歳半)、子ども虐待等々。

 その様な場合には、充分な愛着形成が阻害され、内的な安全基地を確保することができなくなる。→ 愛着障害。


 愛着形成に問題がある幼児の行動特徴

○落ち着きがない、多動、注意転導性(ADHD傾向)
○集団逸脱行動:集団から外れる・入ってこない。
○乱暴、すぐに手が出る。加減しない。
○年齢不相応の対人行動
・大人にまとわりつく、同年代と遊ばない。
・強い警戒心
○不自然な愛着行動
・保護者がいるときはまとわりつき後追いもするが、いなくなると態度が急変(何も無かったかのように平静に振る舞う)。
○食行動問題:過食、盗食、異食、反芻。
○痛みがあると思われる状況なのに平気
○身辺の衛生に無頓着(失禁しても平気など)

 これは、青年、大人となってゆくにつれて、生きる違和感、内部に不安定な空虚を抱え、常識的な行動によっては満たされない内側の空虚を抱えて生きることになる。

この主題(問い)の応答とみられるクリシュナムルティの直接の記述を見つけたので提示します。

 新しい芽 → イタリア、ノルウェー 1933年 講話の言葉どおりの記録 → ノルウェー―1933年 フログネルセテレンでの第三の講話 → 最後の質問 より引用

質問: 私の生の豊かさと多様さをつくりあげている思考と感情の中に、愛着のもつれと混乱を感じます。逃げることができないように見える経験から離れることをどのようにして学ぶことができるでしょうか?

クリシュナムルティ: なぜあなたは離れることを望むのでしょうか? なぜなら愛着が苦痛を与えるからなのです。所有することは嫉妬、絶え間ない警戒、果てしない苦闘のある葛藤なのです。愛着があなたに苦痛を与えます。だから「離れていよう」と言うのです。すなわち、あなたの脱離は単に苦痛から逃げ出すことに過ぎないのです。あなたは「方法、手段を見出そう、それによって私は苦しまないだろう」と言います。愛着の中にあなたを目覚めさせ、あなたを動かす葛藤があります。そして目覚めさせられないために脱離を思い焦がれるのです。あなたは苦痛を与えるもののまったく反対のものを望みつつ生を通り抜けるのです、そしてその欲求そのものがあなたの巻き込まれているものからの逃避に過ぎないのです。
 それは脱離を学ぶという問題ではなく、目を覚ましたままでいるという問題なのです。愛着はあなたに苦痛を与えます。しかしあなたが、逃げようとする代わりに、目覚めたままでいようとするなら、あらゆる経験に開放的に直面し、理解するでしょう。あなたがあなたの状態に愛着し、満足しているなら、少しも妨害を経験しないでしょう。苦痛と苦悩の時にのみ、あなたは反対のものを本当に欲し、それがあなたに安心を与えると考えるのです。あなたがある人に愛着しており、平和と静かさがあるなら、あらゆるものがしばらくなめらかに動きます。そのあとであなたに苦痛を与える何かが起きます。たとえば、夫や妻を取り上げてごらんなさい。彼らの所有に、愛に、完全な盲目、幸福があります。生は何かが起きるまでなめらかに進みます―彼は去るかもしれないし、彼女は別の人を恋するかもしれません。そのとき苦痛があるのです。そのような立場の中で、あなたは「脱離を学ばなければならない」と心の中で思うのです。しかしあなたが再び愛すると、同じことを繰り返します。さらに、愛着の中で苦痛を経験すると、反対のものを望むのです。それが人間の性質なのです。それがあらゆる人間が望むことなのです。
 だから、それは脱離を獲得するという問題ではありません。それは愛着の中で苦しむとき、愛着の愚かさを見るという問題です。そのときあなたは反対のものに行きません。さあ、何が起きるでしょうか? あなたは愛着していたいと思い、また同時に離れたいと思い、この葛藤の中に苦痛があるのです。あなたが苦痛そのものの中で苦痛の結末をはっきり理解するなら、反対のものに逃げようとしないなら、そのときまさにその苦痛が愛着と脱離の両方からあなたを解放するでしょう。

 − − − 以上引用 − − −

 愛着とは執着するものでもなく、脱離するものでもなく、その両方から解放されるものであるとクリシュナムルティは述べている。その苦しみに直面することによって。
>>[8]

愛着障害における問題行動について、自覚しなければならないと思うことが多々あります。ですが同時に、愛着障害を抱えた歴史的な偉人の志向に僕は着眼していきたいですね。

現代の医療では『障害』と名付けられる精神的な疾患が余りに細分化され、医師の言われるがままに薬物治療や、闇雲な認知行動治療、カウンセリングなどに走り、かと言って『障害』という観点から自己の改革に取り組んだ患者の多くは、その改革に何らの成功を得ることもなければ、障害を指摘した医師が責任を取るものでもありません。
ですから、負の要素は『課題』として自覚しながらにして、主たる着眼は飽くまで個性。
常識力が執拗に問われる日本社会でこそまさに、個性を伸ばし創造性を振りかざし追求して行く過程や結果を寧ろ細分化することが、否定的判断に対して全く足りていないというのがイコール、僕らや彼ら、彼女らの生きにくさだと思うのです。
『障害』を『障害』と捉えたところで、そのことが起こす問題点を把握したり理解しておくことは大事であっても、それを本文とて駒を進めるには、やたら薬理や病理に拘り治療の本質を見失っている愛着障害の持ち主を例に見て取れるように、世相の理解があまりに後進であるから、全く発展的な希望を持てないということです。
>>[9]

昨年の12月まで、KB会の会合が月1回行われていました。そこでの講師は『時間の終焉』の翻訳者でした。

 その方のご都合で、明けた1月からは会合はありませんが、それまでの講話の映像記録は閲覧することができます。

 クリシュナムルティQ&A入り口 → リンク → ツリー式掲示板:クリシュナムルティから禅へ 参照。

 そこでは、仏教や坐禅、そしてクリシュナムルティとの関係が示されています。
>>[15]

 それよりも、愛着障害の概念がまだ普及し始めた初期の段階が、今現在なのです。

 自閉症スペクトラム障害などの診断名が付けられてしまっている愛着障害者が少なくないのです。

 そのアプローチは異なるのです。

 更に、愛着障害は早期に適切なアプローチすれば、ほぼ回復し、全快に近い状態になるのです。
>>[17]

自閉症スペクトラム障害などに区分されてしまうのは愛着障害が、それらの例外としてパーソナリティを肯定的、発展的に捉えられる機会を逸してしまう現状といった感じですかね。

愛着障害の普及の初期が今の医療考察だという話は初めて聞きました。

愛着障害のような発展的な内容の認知が後進しているというのは、やはり医療が様々な特定不能のパーソナリティに対する診断を無闇に細分化して、旧態依然とした見地で半ば人格を否定するに等しい行為の末端なんでしょうかね。
>>[19]

ルーマニアのマンホールチルドレンをご存じでしょうか。

 彼らの一部は、愛着障害を克服したのです。

 愛着障害のアプローチによって。

 私は、克服できるものは、克服してよいと感じています。
>>[20]
マンホールチルドレンとその背景について、そしてその障害克服のプロセスについて、宮啓さんの考察をこの場に記して頂けないでしょうか?
>>[22]
“Kの教えに馴染まない”というのはどういう意味なんですか?
これは洗脳の一種のような話でしょうか?
>>[21]

ルーマニアのマンホールチルドレンの背景についてはネットで調べることができます。

 そのチルドレンの幸運な一部が、厳格な審査を通過した里親達に預けられました。

 その後、追跡調査が行われ、適切な環境での養育が為されているかの調査が継続されました。

 その調査結果、ほぼ10割近くの割合で、愛着障害の特性が消失していたのです。

 ただし、臨界の年齢があり、それを越えている子どもたちは対象外です。

 アプローチは、愛着障害の特性を知った上で、その子を我が子同様に育てるだけです。それら里親達は専門性は有していません。ただ、子に恵まれずに授かった里子を心から大切にしたのです。
>>[24]
育成過程で欠落した愛情を再構成しようということですか。

通例、分離障害や乖離の類では2歳〜6歳くらいまでの年齢に適切な愛情を母親から受け取っていない場合に、歪んだ人格が出来てしまうということですが、この場で言う臨界というのも約、6歳くらいまでのことでしょうか?

逆に、年齢が成人になってしまったり、臨界を超えている年齢で出来上がってしまった障害の克服に話を進めたいのですが、その場合の治療法はやはり現代医療では適正な薬もなく、適正な医療も確立していないという話になってしまうのでしょうか?
臨界を超えた年齢の、人格統合はこのコミュニティにおける専門的見地から可能性に関してお心当たりはありますか?
>>[25]

 歪んだ人格ではなく、それまで自閉症と診断されていたのです。自閉症の特性と同じです。

 自閉症が脳の機能障害であるがゆえに根治ができないことに対して、愛着障害は脳には障害がないので臨界の年齢以前に適切なアプローチがあれば、その特性が根治するところが自閉症と異なるところです。

 その臨界の年齢が、私の不確かな記憶では9歳の臨床例があったと記憶しています。これは日本での臨床例であり、世界の最高年齢記録となっています。

 それ以降の年齢については、障害の程度によると感じています。すなわち、社会に適応できている程度の特性であれば、20歳前後からでも、そのアプローチによって改善される可能性は否定できません。

 これが30歳を超えてしまっている場合のケースは私は知りません。

 ただし、社会人の中にも大人の発達障害の存在が在るように、何とかどうにかこうにか社会に適応しているケースがあるので、社会に適応している成人については、このコミュニティにおける専門的見地から可能性はありうると感じています。
>>[26]
この手の障害に着眼して何か考えようとすると、人格障害、自閉、乖離、内在解離など様々なカテゴリーに症例が分類されることに、シビアな方が多いですから発言には気を付けなければいけないですよね。

何しろ人格的なものをエビデンスにした精神医学の医療の考察は2002年くらいにようやく具体的な始まりが遡るというのが日本における実態であり、これには驚きました。

一体、国内の精神科医は何をやっていたんでしょうか?という感じです。

30を越えた年齢についても、最近の精神医学の一部では人格統合は可能であるという見方もあるらしく、愛着障害については、まだまだ私にとっては未知のものです。

例えば特定不能のパーソナリティ疾患者のデリカシーを擁護するのに適切な表現だ、ということだけが今感じられます。

生きて苦しんでいる者が居る以上は、このコミュニティにおける発達障害の類いの専門的見地は、やがて行き場を失なった者の指針にもなり得ましょう。
宮啓さん、お久しぶりです。
以前のアカウントに入れなくなってしまったので、改めて愛着障害の考察、ご鞭撻、論文よろしくお願いします。

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