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クリシュナムルティコミュのクリシュナムルティの限界について

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 「『クリシュナムルティ』は無理」でKの本を持続的に精読するのをやめてから、うまく書けませんが、自分の心や意識をフラットに見ようとしてきました。
 また、そうした意識からKの言葉をフラットに眺めるということをしてみました。そうしますと、以前は気付かなかった、Kの言葉の問題に少しづつ気づくようになりました。
 この「問題」というのはダメだということではありません。
 ただ少なくとも、彼の示唆が包括的なものではなく、限界があるのではないか、ということです。

 下記、ひょっとしたらあまりに当然なことかもしれませんし、感覚的な話であって論理的ではありません。もし宜しければ、ご批判・ご指摘頂ければと思います。


【1.「他者への思いやり」や「平和」への言及の仕方のKの癖】
 気づくようになったのは、「他者を大事にする」ということや「思いやり」「平和」が、彼の言葉の中ですと、必ず社会的概念や抽象概念となっており、具体的に「隣に座ってた人と仲良くして、楽しかった」などとは絶対に出てこないことです。

 自然の素晴らしさや彼の超越的感覚への賛辞は出てくるのですが、具体的な人間関係を尊重する言及はないですね。例外的に、弟さんが素晴らしかった、ということは出てきますが。言及されるのは常に、やや抽象的な社会的平和です。
 この頃は、あれ?これはちょっと明らかに抽象的なんじゃないか、ほんとに言ってることと繋がってるの?と感じるようになりました。


【2.思いやり・他者を大事にするということとKとの距離感】
 フラットに自分を見て、より強く思うようになってきたことは、自分が他者を大事にできず、自己中心的だということです。
 難しい、素晴らしい概念を理解できた、などと思うたび、―たぶんそれこそがエゴイズム幻想なのです―少しづつ威丈高になります。エゴから自分以外を見下すようになり、他者への尊敬を失いますが、この孤立は心をつらくしますし、平和ではありません。
 これこそがKの言葉を信奉していた(とは思っていませんでしたが)頃に、私の心がきつくなった原因だと分かってきました。少なくとも私にとっては、Kの言葉はこういう傾向を助長するように働きました。


【3.日常の穏やかな過ごし方とKの言葉との距離感】
 クリシュナムルティが、何かある特殊な認識、ある直感的感覚を持っていたことはかなり確かかもしれません。そして、そうした感覚を原点として、そこから彼は全てを語り、それ故にそれは真理だという風に言っていると感じます。
 しかし、やはりそういった特殊感覚・特殊認識は「日常の意識の外」のことだと思います。
 私は、日常を、ほかの人への思いやりをもって、仲良く幸福に過ごすということや、他の人の役に立つためにちゃんと仕事をする、などということこそを、しっかりとできる人間になりたいと思います。

 そういった、「日常を他者とともに、より良く過ごす」ことが、Kの指し示す線上に、本当にあるのでしょうか?もしもないとすれば、そして彼の言う真理がそういったことを含まないものだとすれば、その是非善悪は私はわかりませんが、ちょっとどうなんだろうと感じるようになりました。


【4.なぜKの言葉はイズムを破壊的に攻撃するのか・上の癖があるか】
 上に書いたとおり、Kの特徴には、■思いやりや平和への言及が抽象的であること■「真理」の書き方が、―彼は否定しているものの―やはり超越的感覚から来ているような書き方がされていること など上で見たような点があります。
 もう一点、「イズムの徹底的な批判」があります。「イズムへの信奉は全て囚われである」という言動にに昔はすごく納得していたのですが、やや過剰であり、本当に適当なことなのか分からない、と感じるようになりました。

 普通に考えると、他の人が大切に思っていることなのですから、まず思いやりをもって理解することが大事ではないでしょうか。その上で、一緒に虚構性に気づくこともあるでしょうし、そういう方向でない結論に行くことが妥当である場合もあると思います。
 そのアプローチしか現実に有効とも思えませんし、真理という名前の自己閉塞に陥ってしまうのではないでしょうか。
 しかしこういった行動規範が、少なくともKの言葉からは出てこないように思いました。

 
 なぜかと考えてみますと、みなさんお分かりだとは思うのですが、やはり彼の原点との関連だと思います。Kの出自や育ち方とその後の過ごし方から来ているのではないでしょうか。

 小さい頃から、救世主だと言われ親元から離されたのは、やはり異常なことですし、つらかったのではないでしょうか。
 そうしたものを成り立たせていた神智学の観念を破壊的に攻撃し、教団を解散した、という行為や考えが、当然ですが彼の原点です。なので、それをトレースするように、ある種習慣的に、ずっとそれを語っていることを感じます。他の癖もここから出ていると思います。人間の経験の量には限界があるので、こういう人生の原点的体験に立脚するものだと思います。

 このことをあえて、すごく客観的に見ればですが、「成長時のトラウマと、成人初期の成功体験に人間は囚われる」という一般的なことから一歩も出ていないことであるように思います。彼の原点がそこなので、イズム破壊と否定を繰り返し説いているんでしょう。

 このことからすると、Kの言葉はやはり限界があるんではないでしょうか。少なくとも、「囚われを破壊して一人で独立しなくてはならない人生フェーズ」では参考になると思います。
 ただ、人生はそうでない時期も多いように思います。自分が仮に「真理」を認識したとしても、それが他者の役に立つことに繋がらなかったり、良くない内向性を助長する場合もあると思います。
 そういう時には、Kの言葉はあまり参考にならないのではないでしょうか。
 そもそも、それは「真理」なんですか?

コメント(204)

>>[163]

>Kの語ることが、ある程度解ったのならば、K信奉者などになりえないと思うのですが。

はい、仰ることはわかります。「信奉者になるのはおかしい」ということは賛成しますが、「なりえない」というのは、そうでもないかもしれません。

◆上の、真実在の表現とも関わるのですが、クリシュナムルティさんの詩的文章を読んでいると、明らかに、「この人は普通の人以上の感覚を持っており、普通の人に見えない何かが見えている」という印象を覚えます。意識的にそういった書き方がしてあると思います。
経歴上の権威もある方ですので、スピリチュアル系が好きな方だと、こういった感覚に憧れを覚えてしまうことがあると思います。

しかし、上で申し上げたように矛盾がありまして、真実在の存在も含めて、すべてを疑いなさいとか書いてあるので、どうしたらいいかわからなくなるわけです。

◆ここで、かなり引いて、彼がそういう矛盾のある主張をする、経歴的な理由、心理的な共感まで至れれば問題ないと思います。
ただ、そういう引いて見られるような精神の安定感がなく、解脱した精神状態のようなものへの憧れが強い方だと、自分で勝手に、変な概念・変な行法を生み出してしまいやすくなると思います。

◆私の結論としては、ここの「矛盾」があるからこそ尊いとか、矛盾テーマを示して生まれ変わらせてくれるとかいったものではなく、単に、クリシュナムルティさんの経験や人格の、ひねくれ度が高いということだと思います。
「1人カルト」のような不健全な精神状態を生み出しやすいのは思想として問題だと思います。
>>[164]

そうでしょうか・・・・

かれは、観た事実をそのまま語ったのだと思います。
その一つが詩なのでしょう・・・

「全てを疑いなさい・信じるのをやめなさい」とは、全ての思想や信仰を信じるのを止めなさいということでしょう。思想や信仰こそが矛盾・葛藤の原因だからです。
それらの概念・思考が止んだとき、そこに残るものを指し示たかったのでしょう。

ただ実際多くは、Kの語ったことを思想・概念として捉えます。
思想として捉えると、精神は混乱するでしょう・・・
思想であれば、どのようなものでも(K以外でも)、現実とは軋轢・矛盾を起こすからです・・・
>>[166]

あのね、明らかに「感じたこと・考えたことをまとまった形で述べている」というのは思想ですよ。
客観的に自分の思考のありさまを理解した方がいいです。それは明らかにクリシュナムルティ信仰ですよ。
下を読んでみてください。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「資本論」においてマルクスは、観た事実をそのまま語ったのだと思います。
その一つが交換価値の分析なのでしょう・・・

「プロレタリアート革命」とは、ブルジョワの支配を脱するということでしょう。ブルジョワによるプロレタリアートの搾取こそがこの世の害悪の全ての原因だからです。
それらの支配が止んだとき、そこに実現されるものを指し示たかったのでしょう。

ただ実際多くは、マルクスの語ったことを思想・概念として捉えます。
思想として捉えると、革命への意思は弱まってしまうでしょう・・・
思想であれば、どのようなものでも(マルクス以外でも)、現実とは軋轢・矛盾を起こすからです・・・

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

この共産主義の人のマルクスの捉え方と、ぎんやんまさんのクリシュナムルティさんの信仰・とらわれの程度が全く同じになっているということが分からなければ、相当な重症です。

クリシュナムルティさんだけが「何を言っても、現実自体の正確な把握であって、作り上げた思想ではない」なんてことがあるわけがないでしょうが。

クリシュナムルティさんも、マルクスと同程度に、またぎんやんまさんとも私とも同程度に、全く同じ人間、ただのジジイですよ。程度の差はあるとしても、正しいことも間違ったことも言ってますし、概念化したことを言えばそれは「思想」です。

このことは徹底して把握していなくては、間違えますよ。
>>[167]

ひとつ不思議なことは、大地の詩さんがクリシュナムルティから離れて、数年経ているにも関わらず、あなたにが思いやりを有していると感ずることができません。

あなたが、思いやりと無関係な存在であることは、クリシュ ナムルティのせいではない、ということはありえないでしょうか?

すなわち、あなたが過去にクリシュナムルティに取り組んだから、あなたが冷酷になったのではなく、もともと大地の詩さんが冷酷であったために、あなたの眼に映るものが冷酷に感ずるのではないでしょうか?

あなたは、実生活の中で、思いやりの仮面を着用して、死の床まで行くつもりですか。

仮面なしで、自然な思いやりで、生きる人生を共に探究することは、どうしても無理なのでしょうか。
>>[167]

お早うございます。

>客観的に自分の思考のありさまを理解した方がいいです。それは明らかにクリシュナムルティ信仰ですよ。

それは、おかしいですね。
大地の詩さんが、「ピタゴラスの定理」の解き方がお解りだとしても、それでピタゴラス信仰者になる訳ではないでしょう・・・

>概念化したことを言えばそれは「思想」です。

それは当然です。
概念化したものは、過去であり、思想となります。

ですが、Kは概念化せずに観なさいと言っているでしょう・・・
概念化しないとき、そこに言葉や概念は生じません。
しかしKは、それを指し示すのに、言葉使わざるを得ませんでした・・・
(禅であれば様々な手法を使うでしょうが)

ですが、言葉(思想)を捕まえ、そこに焦点を当て解釈するだけでは、混乱が増えるだけで、得るところは少ない思います。
Kは洞察という言葉も使いますね・・・
失礼ながら、洞察が起きなければ、Kを読んでも思考の混乱に陥ったままとなるのではないでしょうか・・・

>クリシュナムルティさんだけが「何を言っても、現実自体の正確な把握であって、作り上げた思想ではない」なんてことがあるわけがないでしょうが。

Kは、所々で「私の肌は茶色です」と言っています。
これが思想でしょうか?
事実を事実として述べただけでしょう。
事実を事実として観たとき、それを言葉に置換える必要さえありません。
そのとき、概念化は起きません。。事実を観て完了です。問題は起きません

これを、言葉にし概念化されると問題が作り出されます。
「私の肌は何故茶色なんだろう、何故茶色に生まれたんだろう、何とかしなければならない」と・・・
そして精神はこれを解決しよう、何らかの意味を見出そう、と葛藤に苦しみ、本人の悲哀事となります。

そのようにして精神は事実ではなく、概念を操ろうとするのです。ですから問題(事実との乖離)はいつまでも残るのです。

これが、通常の私達なのです(Kを読み続けた後でさえも)・・・・
>>[170]

お早うございます。

>ぎんやんまさんはクリシュナムルティを完璧にコピーして、クリシュナムルティの中古車人間として、誰かをさとしたい、というイメージを抱きました。

評価有難うございます。

Kが語った内容を全く理解しないで、同じことを語っているんでしたら完全コピーでしょうね。

これは数学の問題を解くのと同じと思っています・・・・
いづれ答えは同じところへ集束するのでしょうね・・・
だからといって、理解しないで数式をまる写ししているのであれば、本人は解っていないのです。
何れはボロが出るものです・・・・

ですから、ここで色々述べている私自身、本当には解っていないでしょう・・・・
なので、ボロが出たのなら、そのご指摘をお願いします。

>誰かをさとしたい、というイメージを抱きました。

「誰かをさとしたい」ということには関心はありません。
誰かが,、どう考えようが、どう生きようが、その人本人が決めることだと思っています。
それに「誰かを変えよう、世界を改善しよう、Kの教えを伝えよう」という意図自体がすでに暴力です。

私はただ、私の興味本位でここに来て、自分の考えを発言しているだけです。
その意味で、私は自己中心的であると言えるのです。
宮啓さん・ぎんやんまさん・南方さん

書き込みありがとうございました。取り急ぎ御礼申し上げます。



>ぎんやんまさん
もう一回よく読んでもらえないですかね?
あなたの文章をトレースして書いた共産主義の人と、ご自身を比べてどう思われますか、とお聞きしています。
後半部分は、クリシュナムルティさんの本を読めばいいんで、コピペして頂かなくて結構です。



>宮啓さん
>過去にクリシュナムルティに取り組んだから、あなたが冷酷になったのではなく
こんな主張は私はしていませんし、私が冷酷なのだとしたら、別にクリシュナムルティさん関係なく冷酷なんだと思います。
ただ冷酷なのは直したいですから、引き続きご指導いただければ幸いです。

>>[172]

お早うございます。

そうとう重症のようです。
仰っている意味がよく解らないのですが・・・・

要点は、Kの語りが思想だということを言いたいのでしょうか?
>>[174]

それは言いたいことの一点目です。盲目的な共産主義者とまったく同じになっていますがわかりますか?


二点目は、上の南方さんと言いたいことは同じです。
発言がすべてクリシュナムルティさんの劣化コピペになっます。
またそれゆえ正直、説得性がほとんど感じられません。
>>[176]

 お久しぶりです。

 今、『静かな精神の祝福』を読んでいるところです。

 私は、クリシュナムルティ関係の刺激をネットで得ています。

 その刺激がクリシュナムルティ理解への取り組みの原動力となっているからです。

 本ひとつ読むにも、私一人ではできません。

 誰か、クリシュナムルティについてやりとりできる方が居られると助かるのです。
Kの限界は「愛」が実在であると言うのにも関わらず、ハートセンター等への言及が少ないことからもいえますし、思考の話ばかりで多次元の話が出てこないことからも、私は限界を感じます。

しかし、Kの言葉によって思考は綺麗に磨かれましたし、人として真人間になれたとも思いますので、感謝しています。
すみません、自分の考えをレスさせて頂きます。

自分はクリシュナムルティを初めて知ったのは、ある祈りの提唱者とそれの継承者の言動の矛盾について語る掲示板で、クリシュナムルティの事について書かれていたので、早速古本屋で探して読んでみたのがきっかけでした。

正直、読んでて頭が痛くなる感覚がありました。
ギリギリと締め付けられるような感覚です。
私は当時、普通に社会生活をしながら釈迦やキリストのような境地へと至る方法は無いものかと思い、世界の平和を祈ってみたり、手かざししたり、人間は神の子である、と思いながら正座したりと、いろいろ模索していました。
念仏なんかただの呪文、題目はS会を想像するからハナから無視、坐禅するくらいなら寝る方がマシ、真言宗?なにそれ?みたいな感じで既成仏教なんて見下してました。葬式仏教、過去の遺物だと。

クリシュナムルティの、本の名前は忘れましたが、とにかく読んでて疲れる。
自分の事を全否定されてるような感じがしていました。私は誰かを尊敬して、その方が説く行とか教えをやるのが合っていると思いました。

それから、私の妹がお寺に嫁ぎました。
それは念仏の宗派の寺でした。既成仏教なんかバカにしていたけど、そこの寺の檀家さん達は、お寺をバカにしているようには見えなかった。親しみを持ってるようでした。そこで気付いた事があります。自分は独断と偏見と先入観とテレビや週刊誌で得たわずかな知識でお寺やお坊さんを否定していただけだったと。

妹の旦那さんは住職ですが、葬式で法外な金額を要求するような人ではないです。お寺を様々な理由で離れなければならない檀家さんにも法外な離檀料を請求するような人では無いです。有りがたい事に、妹と住職さんを、檀家さんの皆さんは支えて下さっています。

そういう事を考えたら、お寺は誰かに必要とされているから存在してるんだと思えてきたのです。
様々な新興宗教も、誰かが必要としてるから存在出来ているのではないかと。

みんながみんなクリシュナムルティのようには生きれないし、なれない、私もそうだ。でも、私はそれで構いません。
何かを拝んだり、時には自分の色々な願望を願ったり祈ったり、そういうのをせずにクリシュナムルティみたいに生きてみたり、色んな人が居て、時にはオウムみたいなのが出て来てしまって警察に捕まったりして、私は、それに対して何かが出来るわけじゃないけど
、世界人類が平和でありますように、と祈りながら生活しています。

長々とレスしてすみませんでした。
クリシュナムルティの本を読みながら頭痛がしていた昔を思い出しながら書き込ませて頂きました。
ありがとうございました。
私は、自我でしか生きれません(笑)
それで構いません(笑)
何したって自我は終焉しません(笑)
でもいいんです、それで(笑)

ありがとうございましたm(__)m
コメント読ませて頂きました、有難う御座います、鋭い!!とりあえずの私の感想です、また色々考えてみます!
>>[182]

ありがとうございます。
あくまでも私の自我は終焉しないかもしれない、
でも、それで構わない、
と書いた方が良かったと思いましたので
補足させて頂きます。

自我の終焉を目的とした生き方を辞めた、
と言っても良いと思います。

自我の動きを見つめようが、世界平和の祈りを祈ろうが、私の頭の中は欲とか、いろんな想いで満ちていて、たまに落ち着いたと思ったら、いきなり嵐のごとく吹き荒れる、これが現実の私です。

私は、自我あるままで、世界平和の祈りを祈る生き方を選んだ、それが自分にとって無理が無いから、という事ですね。
そして私は、クリシュナムルティの説く事を実行しようとされる方々を否定するつもりは全く無いです。

クリシュナムルティが合う人達も必ず居ると思いますし。たまたま私が合わなかっただけです。
私は今も世界平和の祈りなるものを祈っていますが、それで自分の欲とか怒りとかが無くなったり鎮まったりした経験は無いです。
だけど、そんな自分でも何か心の支えが欲しいから、お守りみたいな感じで世界平和の祈りを祈ってます。

だからとてもじゃないけど、世界平和の祈りが素晴らしいとか、皆さんに対して偉そうに言える自分で無い事も重々承知しています。だから時には世界平和の祈りと一緒に、聖書の主の祈りとか南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経を付け加えたりしてます。以前、真光に所属していた事もあり、主の神様ありがとうございます、とかを付け加えたりもします。

でもそれが自分に合ってるし、その時その時の自分の想いに無理なくやってるので、だから続いているんだと思います。世界平和の祈りの提唱者が、祈りに何を付け加えたって構わない、実際は同じ事だから、とおっしゃっていたのが心の救いにはなってます。

長々とすみません。自分の想いを誰かに知って欲しかったんでしょうね。たくさん書き込んでしまいました。また何か思った事あったら書き込ませてもらいます。ありがとうございましたm(__)m
>>[184] コメント有難う御座います、興味深く、読ませて頂きました(^o^)、また何か書きます、宜しくお願いします
>>[185]

コメントありがとうございます。
こちらこそよろしくお願いしますm(__)m
私は、ある一面ではKの信奉者で、ある一面ではKの否定者かもしれない

教育にかけたKの情熱
教育に何らかの希望を託していたK

教育が何やら大切だぞ!
態度については私はKの信奉者かもしれません
私はKの賛同者と言えます

Kのどこについては否定者か?
それを文字化するために、このトピックに
興味を持った気がします

以前より、少しだけKの言わんとしようとしていることが、おぼろ気ながら理解(Kの使う理解ではなく、愚かな人間の普通の理解)できるようになりました

インド仏教、チベット仏教を通してです

チベット仏教のツォンカパのインド仏教の理解を通してです

インド仏教の歴史と、そこで展開された思想哲学的な論争の流れをチベットのツォンカパの解説で理解していくと、何となくKの言いたいことが類推される気になります

もちろん文字ずらだけの理解です
でも、間違いかも知れないけれど「Kはこんなこと言いたかったのかしら」と推測してみることは以前より少し出来ました

チベット仏教でも僧院の奥でマニアックな学僧が議論する内容だそうです

現代西洋思想哲学でいうとヴトゲインシュタインやソシュールの知の限界、言葉の限界の辺りを言葉で議論していると私は思います

と言うことは、Kは言葉の限界のところを言葉を使って語っているのではないか!と思います

仏陀は対機説法で説きました
終世、今目の前の人に説きました

Kは、スキー初心者をオリンピック・モーグル試合用のゲレンデに連れていって「一緒に滑りましょう!」と言っているところがあります

赤ちゃんに微分積分を教えようとしている、赤ちゃんに原子力発電所の管理方法をレクチャーしていると言ってもいいかも知れません









Kは「どうすれば?」との質問に具体的な方法を説く事はほとんどの無かったと思います

しなし、Kの人生から「講和」「対話」を続けたのは明らかです

「講和」もレクチャーでは無くて「対話」のつもりで話していたようですから、生涯を「対話」することに捧げた事は確かです

そうすると「対話」って何?「対話」ってどうするの?
私は思っています

“和をもって貴しとする”の「和」って何?

「対話」って何?
この令和の時代に私の心は向かってます!
Kの革新的で核心的なところ

瞑想の概念を変えたところ
と私は思い付きました
(あくまでも私の思い付きです)

今までは
「瞑想は一人でするもの」
と思い込んでいました

Kは「対話による瞑想」を
人類に初めて提案したと思います

ソクラテスが取り組んだように
対話は主に西洋の伝統に根付いてます
仏陀は対話もしましたがメインは瞑想です
瞑想は東洋の伝統です

Kは西洋の対話と東洋の瞑想を
融合・統合する提案をした!

どう思われますか?
>>[190]

はじめまして、一応管理人をしている者です。
とはいえ、全然詳しいわけではありませんが。。。

Kは、よく言葉の根源的?意味を取り上げたりしますよね。。。
瞑想、という言葉にしても、座して目を閉じて観想する、いわゆる瞑想ではないのだろうと、思っています。
彼の言う、瞑想がどういうものかは、解りかねますが。。。

でも、常に自分の思考を見つめている、という要素は入っているのかな、と。

いずれにしても、K自身が大切なのではなく、教えそのものを、重要視した方が良いのだろうとは、思います。
コメント有難う御座います
(^o^)

仰る事を理解する必要があるのですが、
置いておき(失礼しますm(__)m)

ひねくれた言い方ですが
Kの「教え」
これも曲者なんです(あくまでも独断と偏見です)

「教え」のようで「教え」で無い
♪ベンベン♪

K自身が、自分が「教え」を述べていたと
思っていたか?

Kの「教え」とは?
Kから離れて「教え」があるのか?

私には謎なところです

「常に自分の思考を見つめている」
これはKがよく述べている事ですし本質的なところだと思います

「自分の思考を見つめる」
日本の意味は分かります
しかし
残念だ!、私は体験として実感出来ないのです

Kを読んで、
私にとって一番もどかしい!
ところです
(>_<)
>>[192]

教えではなく事実です。

事実を確かめるためには実験と体験、理解の3つが必要です。
>>[193]

「教えではなく事実です。」
確かに、そんな気がします
一つ一つ事実を確かめながら・・・

そのプロセスを一緒に進めて行きましょう!
とKは言っている気が私にはします

それを瞑想、探究と呼んでいるような気が・・・

それを対話を通して一緒にしましょう!
と言っている気が・・・

>>[194]

探求では、あなたがどうかということは全く問題にならないんですね、自分がどうかということが問題になる。

焦点を、あなたの事実に置いて話すのは議論。自分の事実に置いて話すことを探求と言います。
>>[195]

「自分の事実に置いて話すことを探求と言います。」

この言葉は、ちゃんと飲み込めてないのですが
そうなんや!
という感じがします

となると
対話は
「私の事実は、こうです、貴方の事実はどうですか?」
との問いかけなのかしら?
>>[196]

Kの限界について議論しても詮無いですよね。

まぁしたい人はしとけばいいと思いますが。

私は今日、死の実在と直面して心理的に死ねるようになったのですが、勘太郎さんはどうですか?

>>[197]

私は心理的に全然死ねて無いです

業と煩悩にまみれているのかしら・・・
>>[198]

一つ一つお互いにとっての困難を乗り越えていきましょう。
>>[191]

「彼の言う、瞑想がどういうものかは、解りかねますが。。。」
確かに同感します

Kの「教え」とは?
「思考」とは?
「見る」とは?
「思考を見る」とは?

確かに
「Kは、よく言葉の根源的?意味を取り上げたりしますよね。。。」

「思考を見る」って?
残念ながら私は思考を見たことがありません

「思考を見る」とはどういうことなんでしょうか?
そうなんです
>>[201]

言い換えるなら、気づいている状態なのでしょうか。。。
座して自分の思考に気づき、日常生活においても、なお、気づ続けるといいますか。。。
ここは、クリシュナムルティのコミュなので、それに限って話をすべき場所なのかもしれませんが、個人的にはK本人に興味があるというよりは、目覚める、ということに関心があるので、それに関することならOKというスタンスなので、ちょっとごご紹介します。

阿部敏郎さんという方がいまして、禅の作務というのは行為において、自覚を伴って行うことを、目的にしている、と言っていました。
ちょっと説明が怪しいですが。。。^^;
瞑想という言葉も、これに近いのではと。

もし、興味があればどうそ、阿部さんの話です。瞑想についての話ではないかもしれませんが。。。
https://www.youtube.com/watch?v=LFFAsc2y4X4
>>[202]

コメント有難う御座います
機会を見つけて観てみます

すんません
ガラ携なんでYouTubeなるものが見えない(^_^;)

たまにパソコン使いますので、その時に
(^o^)
気付きの必要を指摘され、それを実行し、その結果、今まで気づかなかったものに気づき、それが見えました、それに対し、人は再び反応します、がそれの応答は以前と同じ思考の応答、反応です、その結論は依然として、不完全なのです。それに気づくことが必要です。今までより少し多く、深く見ることができたからといって、人は理解出来るようになったと思うかもしれませんが、それは理解ではありません、そこに真理は存在しません。真理を発見できる状態をもたらすには人は完全に沈黙しなければなりません。そこに理解が生じるのですが、その沈黙は自己、思考の限界を見て、その不十分、不完全を明確にするときにのみ生じます。人間は気づいたものに対し即座に判断し結論を出したがります、そのように条件付けられているからです。しかし、その行動、思考を基盤とした応答が現在ある混乱、争いをもたらしている、という事実に気づき、実際に、自分自身の内に起こる全てを越えていかねば実際にあるものに出会えないでしょう。真理とは実際にあるものに直に、素直に出会う、ということなのです。すると、そこから全く別種の応答が生じるのです。というのも、そこに思考を基盤とする応答はないからです。

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