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クリシュナムルティコミュの「クリシュナムルティ」は無理

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クリシュナムルティの言葉の透明感が好きだったことをきっかけとし、5年ほど一日に3回以上は読み、共感しようとし、翻訳を続けてきましたが、先日一切放棄しました。理由は、「現実への適用」が不可能であり、このままでは自分の人格に破綻を来たすと確信されたためです。(この「現実への適用」という考え方自体がKと矛盾しているとの批判はもちろん理解しますが、ではどうしろと言うのでしょうか)

Kは講演し本を書いていますが―イズムに従ってはいけない、目的を意識してはいけない、思考と概念は放棄しなくてはいけないと言っています。
なぜ、声高に主張(「主張」なのかはもちろん分かりません)する人が、思考してはいけない従ってはいけないなどと、それ自体を否定するのでしょう?
もちろん、この矛盾の緊張感の中に、真理的な彩りを感じることでKに惹かれるのだということは分かっています。しかし矛盾は矛盾です。

その上で、どう接すればいいのか。
生活規範としてKを真正面から読むと、神経衰弱に近い状況になります。理由は上の通りです。
Kの言葉を詩として芸術として感受するならいいのかもしれません。しかし、これはごくたまに読むとか、その言葉に生きることを制限するということで、言葉を曖昧に捉えよう、と妥協することと同義です。それを超えて理解しようとすると、どうしても、どうしようもない矛盾が出てきてしまいます。

自分の思念に集中し続ける瞑想体験において、普段の意識よりもKの言葉が自然に受け入られる心の状態になることは知っています。しかし、そういう状態を離れると、即座にKの言葉は矛盾と絶えがたい神経衰弱を引き起こします。これは本当にそうで、数百回に及ぶ体験的なものです。

おそらく、ただ一人で、全く今までのイズムに寄らず、宗教的修練をし続け、生活にその行為しかないような人物のみが、自然にKの言葉を感受できるのだと思います。しかし、自分には生活がありますし、ある一定の規範や集団の常識などに従って、目的を持って行動するような生活の側面を切り捨てることは、今後も絶対にできないであろうと確信されました。
である限り、結論的にKは無理です。
そして、そういった側面を切り捨てられる人は、全ての人の99%までは存在し得ないようにも思います。
そして、そういった切捨てをしていない人がKの言葉に触れて、耐え難い苦痛が生まれないということは、Kの言葉を真剣に受容しようとしていないことと同義ではないかとも今では思えました。

要は、Kの言葉は、ほぼKにしか自然に感受し得ないものだったのだと結論付けざるを得ません。
今まで自分は、この結論から逃げていたようにも思います。
私の軸だったので(こんな風に思っていること自体への批判はもちろん分かりますが、ではどうしろと言うのでしょうか)つらい限りです。

コメント(218)

悟ったとわかった瞬間、もう悟りではないんだと思います。

私は「悟りの境地」みたいなものは、嘘だとさえ思います。

俗世間から離れて修行をしたり、思考に埋没するのは、
逆に、私は「お手軽な」方法だなあとも思います。

なぜクリシュナムルティが教団を解散させたのか。
そこに、彼の意図があったように思います。

人は、思考する人は、常に揺れ動く存在。
悟ったと思ったときも、悟りたいと思ったときも、
その悟りすら忘れているときも、常に揺れている。

そう、例えるなら、蝋燭の炎のようなものなのではないかなと。
その揺れを止めようとすること自体が不自然な気がします。

普通の生活をすればいいんだと思います。
自分なりの生活を、ただただ過ごせばいいんだと思います。
その幽かな炎さえ消さなければ、炎が存在するとだけ自覚すれば、
そしてその幽かな炎が周囲を明るくしたり、暖かくさえすれば、
それだけでいいんだと思っています。

私は生きていたときの彼を知りませんが、
きっと、常に揺れていたんではないか、
ある種、人間臭い人だったんではないかと、
個人的には、密かに期待していたりします。
これは、あくまでも私の期待であり、願望でもありますが(苦笑)
クリシュナムルティを理解してから禅についての本を読んでみれば、まだこの世の中に生きやすさを見つけることが優しくなる方が、少数でもいらっしゃるかも知れません。自身の体験からですがオススメしますm(__)m
もし自分が、
今の意識レベルで永遠の生命を手に入れたとしたら
果たしてどうなると思いますか?

たとえばお金で考えてみたとして、
悟って終わりと考える人は、
一生困らないお金を手に入れて終わり!
・・・という人と、
対して変わらないのではないでしょうか?

また、お金は楽して手に入れるものではなく、
苦労して手に入れるから価値がある!
・・・と思っている人はどうでしょう?

その人は恐らくは一生、
幸せを取り逃がすことでしょう・・・

なぜなら、
成功は比較によって推し量れますが、
幸せは本人の主観の問題だからです。


個人差はありますが、
人間は全く食べなくても、
一ヶ月やそこらは死なないでいられます。
では水はどうでしょう?
精々もって、10日から二週間くらいでしょう。
では呼吸はどうですか?
5分止めていられる人はいますか?

・・・ここからわかることはつまり、
呼吸、水、食べ物の順番で、、
人間にとっては大切だということです。

でも普段これを多くの人は、
全く逆に意識しているのではないでしょうか?

息を吸う為に働いている?
水を飲む為に働いている?
では、
飢えて死なない為に働いている?

・・・ローンや、楽な暮らしの為に、
または、親兄弟や家族の為に働いているのであって、
飢えて死なない為に働いている人は殆どいないのではないでしょうか?

僕がある時にご縁のあったホームレスの人達には、
実際、様々な人達が居ました。
腕や身体の一部をなくして働けなくなった人。
ただ働くのが嫌でなった人。
借金を背負わされ、住む所が無くなった人。
底辺の生活を知る為にあえて一緒に生活している人。
・・・まちまちです。

それぞれの人にそれぞれの理由がある訳です。
でも驚くことに彼らの殆どが、
命を粗末には考えていませんでした。

働くのに必死で生きている人達・・・聞こえはいいですが、
実際には命を粗末にしている人達です。
なぜか?

それは喩えていうならば、
携帯電話を毎日急速充電して使うようなもの・・・
とも言えるからです。

生命というバッテリーが大きい為に大抵は気がつきませんが、
原理は同じです。
働き過ぎの急死とはつまりは、そういうことです。

呼吸の重要性にもっと気がついたなら、
水や食べ物からの栄養素も
もっと取り入れられるようになる・・・
その様なことを考えたことはありますか?
サプリメントは死んでいる栄養素ですから、
大量に摂った所で、対して役には立ちません。
所詮は文字通り、補助でしかないのです。

この中で、
呼吸のありがたさを本当に感じている方がどのくらい居られますか?

逆説的に聞こえるかも解りませんが、
人の命に限りがあることを
素晴らしいと思えるレベルに至らない限り、
悟り云々は恐らくは、
理解できないことなのではないかと僕は思います。

現代人の殆どが、
『たくさんの知識を持ってはいるが、何一つマスターしていない人々』
・・・だと僕は師に教えられました。

大切なのは、悟りの境地云々ではなく、
呼吸の大切さ、
生きていることの大切さ、
そして、
全てのモノは、一つの意識の別の側面に過ぎない・・・
ということを自らの存在すべてで
認識することなのではないでしょうか?

そうなれば、
互いに争うことの愚かさがわかることでしょう。

もう一度、
自分自身に問いかけてみて下さい。

もし自分が、
今の意識レベルで永遠の生命を手に入れたとしたら
果たしてどうなると思いますか?

・・・おっと、長過ぎですね?
生意気なことを長々と語ってしまってすみません。
あせあせ
> アポ太さん

うん、ちょっと生意気かなわーい(嬉しい顔)
@神田さん

わーい(嬉しい顔)お久しぶりです!

どのような所が
耳が痛かったですか?
ウインク
> アポ太さん


耳は痛くないけどわーい(嬉しい顔)

ちとえらそう
@神田さん

(^^;)う〜む。
僕の課題ですね。

神田さんの様にもっとサラッと、シンプルに表現できればいいんですが…

> アポ太さん

一旦百行位書いて、全てを削り落として「ある状態」になり、そこで書き込みしますわーい(嬉しい顔)
@神田さん

なるほど、一回書いて書いて書きまくってから
すべてを削ぎ落として、残ったものを伝える訳ですね?

そして重要なのは、その時に『ある状態』になることだと!
@のりたまさん

僕も昔、喘息で息が出来なくなり、
臨死体験をしたことがあります。
だからですかね?

呼吸について、
人よりも大事に考えてしまうのは・・・

のりたまさんはメディテーションはされますか?
面白いことに、
メディテーションはある段階になると、
呼吸をしているのかしていないのか
わからなくなる程に静まる様になり、
呼吸への執着も自然に取れていくんですよね。

面白いもんです。
ウインク

人は この世界に生まれて来て やがて去って行きます それは 自分の人生であり その生き方は 自分で決めるしかない 今この時を生きる 善かろうが悪かろうが それは自分の決めた生き方であるかぎり 自分の責任として納得できるはずです 彼はともに生きる人であるが 彼と同じ生き方をする必要はないのです 自分のなっとくする生き方をすればいいのです 自分の感性を研ぎすまし この世界を感じながら 今という時に集中して 自分の役割を果たして行けば良いのではないでしょうかぴかぴか(新しい)魚ぴかぴか(新しい)
>>大地の詩さんのトピ文に対して
まず現実への適用ができないと言われるが、
それは大半kの言っている事を正しく理解できていない事から来るのではと思います。
kは我々の中に存在するあり方をあるがままに観察する事を言っています。
心理的な中心としての私があるあり方があります。
これを時々刻々に観察し心理的に起こる事(怒り・緊張・欲望といった反応)に
留まりなさいと言っています。
これをやる事を勧めています。
観察する中で洞察が生じたならばその理解が変化です。
見て取ったあるいは感じた事そのものが変化のきっかけとなります。
kは何かの結論を示してこれはやるなとは言っていない。
またkの言う思考はあくまで心理的思考です。
思考の内、心理的なものについてその問題点を指摘しているのです。
そしてその心理的思考を宝物のように扱いなさいと言っている。
心理的思考が(心理的な)私を作り上げている。
反応(心理的思考)はその私・私以外という構造を理解する重要なてがかりです。
関係の中で私(心理的な)が反応します。
この反応に留まりそれを十分に感じ取る事が必要です。
逃げずに捨てずにそこに留まり感じ取り尽くすのです。
心理的な私の根源は心理的な記憶・思考による執着であり心理的な時間の構造です。
反応に留まり理解が進めば進んだ分だけ反応はそぎ落ちると思います。
反応はない方がいいのではない。
反応は必要です。
苦しみも反応の一つです。
目的も必要です。心理的な目的が問題です。
心理的なものとそうでないもの(効率的なもの)を判別できなければなりません。
そうでないならお手上げではないでしょうか。
その為には日々の自分自身の心理的な行動に関心を持ち注目しなければなりません。
クリシュナムルティの言葉は、やはり現実生活の中に役に立つものだと思います。

何か快楽的な物を求める、あるいは神聖なものを求めるという思考概念自体が妄執だと言っているのだと思います。

真理は遍在である。
思考が逆に無知迷いを生むということ。
だから思考を捨てれば自ずと真理が見えてくると言っているのではないでしょうか?
 半年ほど前、新聞にて、世界の人口が70億人に達したとの記事が出ました。追記として、その中で10億人が飢餓で苦しんでいるとありました。クリシュナムルティの言葉に含意されていることは、それを人類が解決できる可能性があるということではないでしょうか?
 ただ、私にはその方法が分かりません。クリシュナムルティはそれを直接的に教えてくれません。実は、わたし自身を救うことさえも未だできていません。
 答えになっていないのですが、ただ、以上は事実であるということではないでしょうか。
>>[203]

2年後のレスになりますが、やっぱりこの発言とかは、盲目的な信仰以外の何物でもないと思いますし、こんなこと、クリシュナムルティさんが一番否定していることではないですか?

クリシュナムルティさんは、数奇な人生は送ったかもしれませんが、あくまで普通のジジイですよ。
それ以外に何がありますかね
>>[204]

貴方は、観念を述べていることに気づいていますか。

大自然の大部分が未知の領域である私と貴方。

観念のやりとりを、私は望んでいないのです。
>>[205]

早速ご返信ありがとうございます。

宮啓さんにとっては、クリシュナムルティさんを肯定すると真実在を認識した行為。
クリシュナムルティさんを否定すると、観念のやりとりであり、望まない行為である、と認識されるように見えますが、違いますか?
>>[206]

自然科学の研究者なら識っています。

 自然の1割すら解明されていないことを。

 大部分が未知の領域なのです。

 ことさらに、心理面・精神面まで含めると、未知の部分がほとんどではないでしょうか。

 そこで、何かを断定的に語ることが観念なのです。

 私が、「クリシュナムルティに惹かれる」と述べるとき、「クリシュナムルティ」とは未知のことなのです。

 あなたがクリシュナムルティを限定した瞬間、あなたは観念の世界に居ることに気づいていないのではないでしょうか。
>>[207]


言っていることがおかしいことに気づいていますか?

「クリシュナムルティさんは別にひとりのジジイだ」と「断定」している、と言っていますが、「人間は皆、本質的に平等な普通の人間だ」というのはごく普通の話です。

そんな普通の話を基礎にして、どういう人だったのか考えてみましょう、感じてみましょう、という普通の話に対し、それは「断定」だ、だからおかしい、などというロジックをつける時点で、おかしな信念の奴隷になっていることがわかりませんか?

変わったインドのジジイに対して勝手にグルイズムを感じ、救世主だなどという妄想を勝手に付与し、断定的に崇拝しているのは宮啓さんではないですか?
>>[208]

もしも、あなたが仏陀の時代に生きていても、仏陀に対して同様に限定していたことでしょう。

 ご自身の観念者としての存在に気づくまでは、やりとりを望みません。
>>[209]

シャカは、確かに非常に影響のある言説を残しました。ただ、「ただのジジイ」ではないんですか?
何か、人間を超えた人なんですか。これもまたおかしな信仰です。
別に、私は何か限定をしておりません。全然普通の人だ、というありのままの事実をそのままに申し上げています。
宮啓さんは、グルイズムへの信奉・囚われが、あまりに強すぎますよ。


◆「ご自身の観念者としての存在に気づくまで」
これは私のほうこそ申し上げたいセリフです。

ただ、「やりとりを望みません」これは、私は全然そう思っていません。
そこまで特定の人を神だと思いたい欲求の元には、何か囚われの元となる苦しみを抱えていらっしゃるんだと思います。
ただ、そういう自分を客観視することはできませんか?

◆自分が神だと思っている人への批判を排除したくなってしまう、宮啓さんのお心が安らいで、静かに凝視できるようになる明澄さを持てるように祈っております。
また、今後もおかしなことに対しては、正面から変だと申し上げます。
>>[210]
観念をもって、何を述べようと、無意味であることに、気づくまで、無意味を止めてください。

あなたが事実というのは、思考が事実と主張しているに過ぎないことを見るまでは、思考の網に捕らえられており、生とは無関係なのです。

生とは無関係の人物は、観念の世界に生きる以外にはないのです。

それゆえ、観念のやりとりを望んでいないのです。

観念のやりとりは、際限がなく、無意味です。

あなたが、本気で、「私は何も知らない。」と言うとき、やりとりが始まるのではないでしょうか。

>>[211]

そうですか。
では、クリシュナムルティさんは救世主であるか宮啓さんは全く知らないわけで、ただのジジイであるということで宜しいですね?
>>[212]

ブッダ同様のただのジジイ以上ではないでしょう。

 少なくとも、真理を得た者には、ブッダもクリシュナムルティもパイロットして不要です。
>>[213]

ご返信誠にありがとうございます。
また、柔軟性があるお返事に大変驚きました。何か、お考えに、変化や気づきがあったのでしょうか?

正直なところ、宮啓さんは「クリシュナムルティや仏陀をジジイなどと呼ぶのは口もはばかられる」位にメシアニズムが激しい方なのではないかと思い込んでおりました。
今回も物別れのような終わり方になるのは9割がただが、そこをきっかけに少しでも気づきのきっかけになればいいと考えておりました。

今まで大きな誤解があったのかもしれず、誠に申し訳ありません。
>>[213]

こんにちは。

>少なくとも、真理を得た者には、ブッダもクリシュナムルティもパイロットして不要です。

これは、どういう意味なのでしょうか・・・・
>>[215]

クリシュナムルティは次の言葉を遺しています。

 「コロンブスは船で大西洋を渡ったが、あなた方には飛行機がある。」

 出自の書籍名を今すぐ挙げることはできません。『クリシュナムルティとは誰だったのか』、もしくは『明日が変わるとき』のいずれかであったような気がします。調べるのには時間を要します。

 その意味として私が汲み取ったのは、クリシュナムルティの苦労をコロンブスに喩えています。

 私たちが、クリシュナムルティの記述(書籍等)なしに、クリシュナムルティの記述の内容に辿り着くのに、人生百年で可能でしょうか。おそらく、千年の寿命を与えられ、真剣に生き、真理を求め続けても、千年でクリシュナムルティの記述の内容に辿り着くことは可能でしょうか。

 しかし、私たちには、クリシュナムルティの直接の記述が遺されている。これを頼りにすれば、与えられた人生で、そこに辿り着く可能性が、飛躍的にアップする。

 「コロンブスは船で大西洋を渡ったが、あなた方には飛行機がある。」これを、そのような意味として私は捉えました。

 そこで、私は飛行機に乗ったものの、その飛行機のパイロット席は空席で、燃料タンクは空であることに気づいたのです。いくら待っても離陸しないのです。

 ゴトさんや新しい芽さんがパイロットとして、他の誰かが燃料タンクに燃料を注入することを待っていたのです。

 先日、このことに気づきました。
 
>>[216]

こんばんは。

>ゴトさんや新しい芽さんがパイロットとして、他の誰かが燃料タンクに燃料を注入することを待っていたのです。

そうですか・・・
ハッキリ申し上げて私は、それには疑念を感じてしまうのですが・・・
>>[217]

私はゴトさんや新しい芽さんへ依存していたのです。

 彼らは80歳を超えているが故に、十年後、二十年後、すなわち、子や孫の代を案じていたのです。

 もしも、彼らが逝ってしまったならば、私は途方に暮れていたことでしょう。

 これが「ゴトさんや新しい芽さんがパイロットとして、他の誰かが燃料タンクに燃料を注入することを待っていたのです。」の意味です。

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