人生の最初の時期(幼児期)と最後の時期(ボケ老人期)はぼんやりしていて、人生の真ん中の期間だけはっきりとした自我がある。ぼんやりとした意識で人生が始まり、ぼんやりとした意識で人生を終える。ひょっとしてぼんやりとしてるのが本来の姿であって、自我のある真ん中の時期は何かのゲームなのではないかと思えてくる。自我や自分というのは対人関係から相対的に生まれてきた錯覚みたいなもののようにも思える。
『生まれる→「ぼんやり期」〜「自我期」〜「ぼんやり期」→死ぬ』という構図。これはどこか朝から夜までの活動に似ている。朝目が覚めて、ぼんやりとしつつも徐々に頭がハッキリしてきて、昼間活動して、夜になると徐々に眠くなってきて眠る。この世界は多くのことがフラクタルになってるそうだが、人の一生と人の一日とがフラクタルっぽく見えるのは何だか面白い。とすれば、朝型の人は早熟型で10代にすべてのピークがあって50過ぎたらすっかり老け込み、夜型の人は晩熟型で10代はパっとしないが中年以降にピークがあるとか(笑)。そんなフラクタルもあったら面白い。
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