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2016年10月15日07:12

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石原内閣が崩れる

実際、満州事変以降の陸軍のあり方を苦々しく思っていた宇垣一成は、大命が降下すると、記者団に向かって、軍の横暴を制する事を誓い、一層の粛軍が必要であると弁舌して止まなかった。宇垣一成の人気はうなぎ昇りになり、国民世論も宇垣一成を強く支持していました。陸軍は、宇垣一成指名説を聞くや否や、阻止に動き出しました。

石原莞爾と磯谷軍務局長、中島今朝吾憲兵司令官は協議の結果、大命が降下した場合、直接宇垣一成に、陸軍全体が宇垣内閣に反対していることを伝え、大命を拝辞するように促す事、そして現役大臣制の復活を利用して、組閣を阻止することに一決したのです。梅津陸軍次官らは、宇垣一成に一本釣りされることを恐れて、陸軍候補になりそうな師団長ら有力者たちに、宇垣一成に指名されても拒否するように根回しを施しました。

海軍も、陸軍の宇垣排除に同調して、海軍大臣を出さない方針をとったために、結局宇垣は、組閣を断念して、大命を拝辞したのです。万事休した西園寺は、平沼騏一郎に打診をしたが、枢密院の議長になったばかりなので、陸軍を操縦する自信がなかった平沼は辞退して、結局大命は林銑十郎に下ることになったのです。真崎甚三郎の教育総監更迭により皇道派処断の口火をきった林銑十郎はまた、満州事変の朝鮮派遣軍司令官として、関東軍救援の為に独断で朝満国境を越えたために「越境将軍」と呼ばれ、石原莞爾とも肝の座った仲であった。林銑十郎が指名されたのも、石原が浅原を西園寺のところに送り込んで、軍は林銑十郎でなければとてももたないと云わせたからだ、と伝えられています。

石原莞爾は、林銑十郎の組閣本部に、十河は、林が余計な動きをしないように、組閣本部の2階に林銑十郎を閉じ込めて、監視させ、出来上がった閣僚候補名簿は夜の時点で、内閣書記官長/十河信二 内閣調査局長官/書記官長兼任 法制局長官/大橋八郎 陸軍大臣/板垣征四郎 海軍大臣/末次信正 大蔵大臣/池田成彬 内務大臣/河田 烈 商工大臣/津田信吾 司法大臣/塩野季彦 文部大臣/有馬頼寧 外務大臣/首相兼任 拓務大臣/農相兼任 鉄道大臣/商相兼任 農林大臣/石黒忠篤 逓信大臣/山崎達之輔 というものだった。

大橋、塩野といった平沼系の法官僚出身者を除けば、十河、板垣、池田、津田という石原莞爾周辺のいわゆる満州派の面々が顔を揃えています。林銑十郎内閣のことを、「満州内閣」「石原内閣」と称されたのも、無理のないところでした。実際石原莞爾は、林銑十郎内閣において、宮崎らが立案した計画を、国策として実行することを目指しており、そのためにこそ組閣工作のために満州派が奔走していたのです。

しかし、石原莞爾らの目論みは、思わぬところから崩れていくのです。梅津次官が、石原莞爾の先手を打って、陸相人事を妨害したのです。梅津、武藤らの幕僚派は、宇垣内閣阻止の時点までは石原莞爾らと利害をともにしていました。だが、彼らは同時に、石原莞爾の独走を許さなかったのです。石原莞爾の計画は、日本を国防国家に変身させるだろう。しかしその独特の指導力、構想力は、幕僚派の存在基盤で官僚的な統治システムまでをも、掘り崩してしまう可能性が高かったのです。

軍のエリートと深い交際がなく、位階や立場も考えずに誰とでも付き合う石原莞爾は、彼らの目から見て、到底信用できないように思われたのです。梅津らが満州派への中傷として、「宮崎はアカだ」と言いふらした、と云った話は、その辺をよく伝えているように思われます。梅津は寺内陸相らと語って、石原莞爾の機先を制し、陸軍大臣を中村孝太郎教育総監部本部長とすることに三長官会談で決定し、同時に海軍にも、艦隊派の巨頭末次ではなく、条約派の穏健な人物を推挙することを打診した。海軍は、条約派のホープ米内光政を海軍大臣として推挙したのです。

さらに池田、津田という財界の入閣候補も、同様の経緯で逃げられてしまい、林内閣の陣容は、一挙に崩れて行くのです。梅津らの異動に憤った十河らは、林にたいして組閣断念を表明して、徹底的に戦うことを進言したが、林は妥協の道を選んだ。十河、宮崎らは、林内閣との絶縁を宣言して、本部を去った。石原莞爾が、もっとも国政の中枢に近づいた瞬間は去ったのです。石原莞爾による国家改造計画の、葬送が始まった瞬間であった。それはまた石原莞爾の、「林内閣は、支那と戦争をしないための内閣だ」という言葉にこめられた対中融和政策が、葬られた瞬間でもあったのです。
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