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2016年09月02日06:06

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古戦場めぐり「大坂冬の陣(大阪府大阪市)」

古戦場めぐり「大坂冬の陣(大阪府大阪市)」

◎『大坂冬の陣』
「大坂の陣」は、慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」と、慶長20年(1615)の「大坂夏の陣」の総称で、江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いです。大坂の役とも称します。大阪冬の陣においては、徳川方の水陸軍と豊臣方の水陸軍の戦いがあり、豊臣方が撤退しています。
徳川家康は関ヶ原の戦いで勝ち、幕府を開いて政権を握りましたが、その行く手にはいろいろ難しい問題が残されていました。それは、豊臣氏をどうするかということです。関ヶ原の戦いの後、豊臣秀頼はわずか65万石の大名に落とされましたが、攻めても中々落ないといわれた大阪城におり、また豊臣氏に心を寄せる大名も少なくなかったのです。豊臣氏では、秀吉の子・秀頼が大きくなれば家康も政権を返すだろうと考えていましたが、その臨みも無くなり非常に徳川氏を恨むようになりました。こうして、豊臣氏と徳川氏の仲がだんだん悪くなってきました。家康は全国の大名から、幕府の命令にはむかないという誓いの書きつけを取ったりして、万一の場合に備えました。家康はもう70才、秀頼は20才を越えて中々優れた若者になってきました。家康は、もし自分が先に死んだら、徳川の天下もどうなるかわからないと心配しました。どうにかして自分の生きている間に、豊臣氏を滅しておかなければならないと考えるようになりました。
こうしておこったのが、方広寺の鐘銘事件です。家康は秀頼に勧めて、大地震で倒れた京都の方広寺を立て直させました。その鐘に貼り付けた文字に「国家安康」とあったのを、家康の名な二つに切って呪うのだと言いがかりを付けて、豊臣氏を攻めました。豊臣氏では、いろいろ弁解しましたが家康は聞き入れず、とうとう戦いが始まりました。
慶長19年(1614)11月15日、徳川家と豊臣家が天下の盟主の座を掛けて雌雄を決する、第一陣の「大坂冬の陣」は開始されました。二条城を出陣した家康と伏見城を出た秀忠は、総勢20万ともいわれる大軍で、大坂城を取り巻く大包囲網を形勢します。それに対して大坂城の豊臣軍では、大坂城の防備を固めて徳川軍を迎え撃つ大野治長の『籠城派』と、積極的に畿内に攻撃を仕掛けて周辺の大名を取り込もうとする真田信繁(幸村)の『積極派』とで、意見が割れていましたが、結局、治長の消極的な籠城戦の戦術が選択されました。
幕府軍は、大坂城の南に藤堂高虎・前田利常・松平忠直・井伊直孝・鍋島勝茂・蜂須賀至鎮・浅野長晟を配置し、大坂城の東に上杉景勝・佐竹義宣を配置、大坂城の北には加藤明成・池田利隆・池田忠雄・有馬豊氏などを置きました。この大軍勢の大坂城包囲網に、さらに伊達政宗や毛利輝元が加わり、幕府軍(徳川方)の士気をますます盛んになりました。しかし、秀吉が想定される防備の限りを尽くした難攻不落の大坂城は、容易には落ちませんでした。
12月4日には、前田利常・松平忠直・井伊直隆らが無防備に、真田信繁(幸村)が守る出丸(真田丸)を攻撃して、手痛い損失を蒙りました。その後、戦線は膠着して、徳川軍の本多正純・後藤光次と豊臣軍の大野治長・織田有楽(長益)との間で、講和条件が協議されるようになります。家康は、「淀殿の江戸への下向と浪人への恩賞」という大坂方の講和条件を拒絶し、武家伝奏を遣わせてきた後水尾天皇からの講話案も蹴りました。12月16日、淀殿の居所である千畳敷が砲撃されたことで淀殿が弱気となり、徳川方に有利な条件で講和が結ばれることになりました。大坂冬の陣の講和条件は、「秀頼・淀殿の安全の保障と大坂城居住、豊臣方の軍勢の罪の不問」と引き換えにするもので、「本丸を残して二の丸・三の丸を破壊して外堀を埋めること」と「大野治長と織田有楽から人質を差し出すこと」という、徳川方からの条件を受け容れました。この講和条件によって難攻不落とされた大坂城は、その防御能力を大幅に低下させることになり、次の籠城戦での優位を完全に失うことになってしまいます。

○「大坂城」(大阪市中央区)
「大坂城」は天正11年(1583)、石山本願寺の跡地に豊臣秀吉が築城しました。大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡しました。落城で灰燼に帰した大坂城は、松平忠明に与えられました。江戸時代には、たびたび火災による損傷と修復を繰り返し、特に1665年には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城でした。江戸末期、鳥羽・伏見の戦いの混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失しています。

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