mixiユーザー(id:12898330)

2022年07月11日20:51

48 view

基底

ストップウォッチやメジャーや測量器で連続量として測れる時間や距離や長さは「実数」という思考の鋳型にマッピングできそうと直感的に思う。
人間は一定距離を移動するのに要する時間が短いほどその移動者は速いという感覚を持つ。
つまり「速さ」という概念を人間は持ちうる。
一定距離を半分の時間で移動する「速さ」と2倍の距離を同じ時間で移動する「速さ」を人は同じ「速さ」と認識できる。
そのほかに1.1倍速いとか10.5倍速いとかも人間は認識でき、基準のものより1.1倍速い自動車より1.4倍速い自動車により「速さ」を実感する。
同じ自動車や馬でも速さは一定でない。馬は登坂ではやや遅い。疲れてきても遅くなる。速さは一定ではなく短い時間に小刻みに変化する。風を切る体感でもわかる。
時間を短く分割して、それぞれの短い時間で測った速さはいくらでも変化させられる。
車ならアクセルの踏み込み量次第で速さを刻一刻と変えられる。
少なくとも人間の時間に対する分解能では瞬間瞬間に時刻は変わるとも思えるので速さも連続量で実数とマッピングできそうだと直感する。

話を変えよう。
堅いバネから柔らかいバネまでいくらでも作り分けられる。
堅いバネは同じ力で引っ張っても伸びる量が少ないが柔らかいバネは伸びる量が多い。
バネの「コワさ」も直感的に人間は認識できると思う。
直感から若干離れるけど、同じ電圧をかけた時に流れる電流の量で電流の流れる量で電流が流れやすい物体とそうでない物体があることも知りうる。

これら長さや時間やこれらの量で定義した量や物性量を人間は直感的に認識できてそれ等をごく自然に実数とマッピングすることに抵抗はないと思う。

あるとき、だれかがある重さの物体にある力をかけ続けたら、その物体の力に比例し重さに反比例する加速度が発生すると言い出す。距離の時間による微分や速さの時間による微分を直感的に認識した人間が一定の重さの物体に働く重力は一定の力であることを認識した人間が、落体の運動方程式を当てはめて落体の各時刻の位置を計算したら上記の微分方程式F=m(xの時間の2階微分)を解いた結果と実測が一致した。

ここで微分とか積分とかもちろん実数の公理系は落体の運動をを書き表すために考案された「レゴブロック」だとしよう。
そのほかにもこの微分とか積分は距離に対する時間微分や速度に対する時間積分以外にもありとあらゆる物理法則を書き表してきた。
ここで一旦考える。解析学の公理系は運動法則を書き表すために考案された。(ニュートンやライプニッツによって)。
一方、後続の微分や積分を使って書き表せる物理法則は、この微分や積分で演算される部分に関しては距離の時間微分や速度の時間積分の「アナロジー」なのではないか?

距離の時間微分や速度の時間積分は運動という概念を記述するために考案されピッタリはまった、ほかの物理現象ではこれらのアナロジー的推論が執り行われてピッタリはまった?

なんで人はアナロジー推論を思いつくのか?
そんでしかも「ときどき」うまくいくのか?

人間は同じものと違うものの区別以外に「似てる物」どうしにも気づくときには気づく「思考の鋳型」を生まれつき持っているのか?

そもそも物事にはなんで「似てるものどうし」があるのか?どうせ森羅万象なんだから中途半端に似てる物なんかなくて思う存分「全然似ても似つかない」もので世の中は埋め尽くされてても不思議じゃなさそうなのに、実社会はなぜかヒトにとってあるモノと別のあるモノどうしが「似てる」ということがときどき起こる

考えてみればこのことも不思議である。

話がまとまらないが、ごく少数の基底を集めたモノには無量大数個の表情がある?
たった100種類前後の元素で世の中すべての摩訶不思議なすべての様相を形作る
将棋は数種類の駒を単純に順番に決められた約束の中から選んで動かすだけのゲームなのに棋譜は宇宙のように広大である。
数学もそうだし数学で書き表された実世界もたぶんそうだろう。
基底の在り方でそこから広がる世界の質や量や様相が変わる。
基底が足りないと網羅できない。基底がある場合に「フルスタック」となることがある。基底が「フルスタック」になった時点で「それ」は森羅万象を網羅することがある。

何かが何かの基底を満たしてるか?(ある範疇を網羅する条件を満たしてるか?)
その際の基底のセットは何と何か?(数学で言うなら公理系)
また上記の網羅条件と基底セットかどうかの判別方法はあるのか? 俺が知らないだけですでにあったりしてw

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する