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2022年01月20日02:20

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中世史私論 その5 没収か安堵か 後篇

 そのため、幕府滅亡と同時に、武士たちのあいだでは、所領の奪い合いがいたるところでくりひろげられ、さきに北条のために所領を奪われていた人びとは、旧領回復をめざしていっせいに行動を開始しました。武士の所領紛争は、鎌倉幕府体制下では、鎌倉・六波羅・鎮西の法廷が裁許を下す形で解決しました。だがこんどの場合、紛争にかかわる人はほとんど無数といってよく、しかも平和的解決の場としての幕府の法廷は存在しないのですから、混乱は阻止すべくもありませんでした。
 こうした事態のなかで、後醍醐天皇は還京からわずか10日後の6月15日、宣旨を発して重大な方針を打ちだしました。

 近日凶悪の輩(ともがら)、繹(こと)を兵革に寄せて濫妨(らんぼう)し、民庶憂ひ多し、ここに軍旅すでに平らぎ、聖化普(あまね)く及ぶ、自今以後、綸旨(りんじ)を帯せざれば自由の妨げを致すなかれ…。

 すなわち、どさくさにまぎれて「濫妨」がいたるところでひきおこされている事態に対し、今後は個々に綸旨を受けた者でなければ勝手な行動をおこしてはならない、というのです。別の側からいえば、綸旨を受けた者だけが所領の回復、知行(ちぎょう)を認められるということなのです。(この項、終わり)
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