隣の課にスタイル抜群で綺麗な女の子がいるのだが、
私は彼女の顔を見ると「この娘は性格が悪いな」と感じる。
そこでふとした時、なんとなくバカにされたような気がして
・・・ああやっぱり性格が悪い女かぁ・・・。
予想は確信へと変わる。
では、はたして彼女は本当に性格が悪い女なのだろうか?
いえいえ本当は私が彼女の顔が嫌いなだけで、
彼女が嫌いな顔立ちをしているから、悪く見てしまうのであり、
悪く見るから、そう扱ってしまい、お互いギクシャクした関係となり、
やっぱり嫌なヤツとなってしまうのだ。
私自身、大学時代、ゼミの教授に嫌われつらい思いをしたことがある。
当時はなぜ彼は私を嫌うのか?私が何か悪いことをしたからではないか?と悩んだが、結局のところ彼は私の顔を嫌っていたのであり、
こういう顔のヤツは汚いことをするに違いない。
彼にはそういう思い込みがあったからこそ、私が何をしても、悪意でとらえ、私を憎んできた。
それは社会人になってからも同じであり、自分を嫌いな人は初対面の時から「こういう顔をしたヤツは悪いことをするに違いない」という目で見るから、私が何をしても彼の目には私が悪く写る。
そのため彼はことあるごとに私を憎んではイジメるのである。
他人にされた時は、ただひたすらつらいだけだが、
ふと思い返せば、自分も同じ過ちをしていることに気づく。
とはいえ、この「顔が嫌い」というのは、茄子が嫌いとか、漬物は苦手といったことと同じく感覚の問題。
努力してなんとかなるものではなく、やっぱり嫌いな顔は嫌いなのだ。
あっ。この人、性格悪そうだな。
そう感じた時は、ちょっと意識的に翻訳して
あっ。俺はこの人の顔が嫌いなんだな。
とすると真実が見えて来る。
私は被害者になることが多く、そのためこの事実を知ったが、
多くの人、とりわけ、上司や先生など偉い立場にいる人は、顔が嫌いなのを相手が悪事をしていると勘違いしていることに気づけない。
気づけない人は、まさか自分が顔で他人を差別しているとは考えない。
あいつは悪事をしているから俺が制裁を加えるのは当然だ。
そう考えている。
私の父も他人をやたらと憎んでいるが、話を聞くと、ただ「顔が嫌いだから悪いヤツに違いない」と確信し、悪口を言っているだけであり、
じゃあ、その人はあなたにどんな悪事をしたのか?と聞くと、
「怪訝な顔をした」とか、「意味深長に微笑んだ」とか、どうとでもとれる些細な行動ばかりで、その人が実際、どんな悪事をしたのか、何も答えられない。
それをつっこんで聞いても、怒り出すだけなので、
「気の合わない人とは接しないでいればいいんじゃないの?」と言うしかない。
ああ、私をイジメた上司も、私を追いつめた同僚も、内情はこんなものだったんだな。
力が抜ける話である。
今、瀧本哲史さんの著書「武器としての交渉思考」を読んでいる。
人は「俺は悪いことをしないから他人に害されることはない」と信じたいものだ。
でも人間は、顔が嫌いなだけで悪意で見、争い事がないところに争いをもたらす。
こちらが平和主義であっても、相手は正義の聖戦をしかけてくるものである。
いきなり「おまえは悪人だから成敗してやる」と言われ、
よくわからないうちに成敗されてしまう。
それで仕事を失ったり、家庭を崩壊させられたり、イジメにあったり。
いくら顔が悪くても、この顔は変えようがない。
自分を悪意で見る人間を善意で見るように変えることはできない。
相手に期待しても、少年ジャンプの世界みたいに和解して仲良しになることはない。
実際、相手に嫌われることなどどうでもいい。てかどうにもならない。
ただ自分の人生をめちゃくちゃにされないためには、悪意を持って接してくる敵を抑えこまなければならない。
そこで武器としての交渉思考が必要なのだ。
仕事柄、不幸になった人をたくさん見、彼らの相談を受けてきた。
私も人の好き嫌いがあるので、やはり好きな人には同情し、嫌いな人は自業自得と見てしまう。
でも、文章にまとめ、客観的に判断してみると、彼らの不幸の原因は他人によってもたらされていることが分かる。
しかもほとんどが、理由なく嫌われ、ワナにはめられ、自分でなんとかしようとし、そして破滅している。
交渉は、個人プレーではなく、まわりを巻き込み、自分を害する相手と闘う方法である。
いくら平和主義であり、自分が他人に危害を加えないようしていても、他人はそうは考えない。
そのうえ、たいてい敵は自分より強く賢く、そして一方的に攻撃してくる。
自分一人の力ではどうにもならないケースが多い。
しかしそんな敵にも天敵がいるもの。
敵の敵を味方につけ自分を守る必要がある。
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