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2020年08月10日23:37

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悟りの話。

神道や、カバラという
人間が感応した技巧の中の技巧
 
しかし、時として、
技巧が過ぎて、
どうなのかと思える。
 
大自然の中で、
大きな呼吸をした時に
感じる繋がりと安らぎの
 
なんと、直接的な
事だろう。
 
もし、神がいると定義し、
そこら中に神がいる時、
呼吸の中で一体となっているのだ。
 
 
ガバリストが使う表象や
シンボルは、
人間サイドによって
もたらされた技巧とするのなら
 
技巧による卓越もまた
人間サイドから見たものだろう
 
 
自然を感じる雄大さのときに
そこに言葉は不要で
 
大切な感じ方もあるように
思える。
 
 
表面的な事が
分かっているのなら、
 
「そのもの」と切り離された
「表面を目撃する 何者か」が
必要であり、
 
その 何者か は、
人々と自分を切り放し
 
「技巧を掴んでいる人」
を演じている。
 
 
演者は、「神を識る」という
縁起になりきっており
 
しかし、
「神を識る者」として
離れている以上、
 
一体のことは、
どれだけ知識で語れたとしても、
その実は、一体から離れているわけで
識らない。
 
 
「一体から離れている場所で、
思考の上で、神と一体とは
どういうことか? を分かっている。」
 
という一体ではない、
離れた立場である
 
なかなか、表現しにくい、
 
 
なるほど、
 
離れているだけあって
表面を見つめ、
やたら世界を説明し、
表面的に理解する。
 
 
離れねば、何も語れず
語らずだが、
まさか、その立場には行けない
 
 
いまさら、
「私は、何も語れません。」
と、その自己は言うだろうか?
 
 
技巧が逃したものが
ここにあると思う
 
 
すでにある自然の雄大さ
の中で、景色に圧倒されるように
 
 
"圧倒されることなどない"としたら
自己は、宇宙大にまで肥大している
という妄想におちいって
しまったのだろうか?
 
 
すでに、遍在している"ソレ" を
思考や頭じゃなくて
"オモイダシタ"とき、
 
 
自己は、どう反応するだろう
 
 
畏敬は、自然に
涙を流せるだろうか
 
 
あまりに、人間の技巧が
過ぎる時、
 
何かを逃しているのじゃ
ないだろうか?
 
という疑問が出てくる。
 
 
自然界の生き物が、
やたら技巧を凝らして
世界や宇宙を説明したがるだろうか?
 
 
ソレが、あらゆる命に
含まれている時、
 
それは、技巧を凝らした
人間にのみ理解されること
などという狭い了見に
おさまるのだろうか?
 
 
ソレがソレをソレしているとき
言葉はいらないだろう
 
 
なぜなら、通常言葉は、
ある個人の自己に
ふずいしているもので
 
ソレがソレをソレしているとき
遍在は個人を認識し、
個人は遍在を認識しているが
 
それは、
連続同時にヒトツとするのなら、
人間という個人の理解に
含まれるハバを超えている
 
 
技巧は、習得されたものとして
役に立つ事も、
素早く行わせる事も可能とするだろう
 
 
しかし、
"ソレ"に関するかぎりは、
技巧を持った個人というもの
から出ない限りは、
直接的に識ることもないかと思う。
 
 
個人として力を
得るための儀式として
"ソレ"に到達するなどというのも
曲解で、バカげている。
 
 
"個人として"の部分
力に倒錯する個人もまた
 
1つの枠組みとするのなら、
いくらその枠組みを強化したところで
本筋から話がズレている
 
 
禅は、答えがない不条理に
自己を直面させる
 
自己は、耐えず探し、
説明しようとするが
 
禅の師は、
不条理に直面させる
 
 
枠組みのない場所の
話をしたいのに
 
枠組みの中で枠組みを強化して
得たものを話されても
ズレてしまうからだ。
 
 
直接、感得するものと、
理解により得たものは違うという
見方も一時的にはいいのかもしれない。
 
 
選ばれし者もおらず、
知識によって超える壁もない時
 
人々は、どうするのか?
 
 
乗り越えられもしなければ、
得ることも出来ないのなら
 
不条理に直面した自己を超えて、
染み出す水があるのなら
 
水は、どういう動きで
拡がってゆくのだろう
 
 
その水を私たちは、
宇宙と呼んでいるのだろうか
 
 
聖なる合一の後、
人々は、どう生きるのか?
 
「らしさ」とは何か?
 
 
 
言葉は、止み
静寂は、声を失い
世界は、そのままの時を刻み
時間は、それを包括する
空間は、それを維持し
安らぎは、染み渡っている
 
何から離れ
何をよりどころにしたのか
 
安らぎが笑う場所に、
安息が根を張る
 
張られた根の繋がりが
道(タオ)を意識している
 
 
もし誰が、
話せるというのなら、
 
彼は、口を持つために、
人間となり、
本当の意味では、
それを思い出していないだろう
 
 
誰も話す事ができない事を
誰が話せるというのだろう
 
 
安らぎは止み、
再び、生命の中に根を下ろし、
 
個人は、再び出現する
夢うつつの夢の中
 
個人は、再び、決意するだろう
 
 
夢の中に安らぎを
もたらそうとする事を。
 
 
道はまた、
目撃者をも育んでいる
 
育みのなかに
養われている
 
 
時と時が紡ぐ先の
安らぎは、
今、練られた。


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