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2019年11月07日17:25

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秋風五丈原 諸葛孔明

10月は諸葛孔明に関わることが多かったので、少し三国志・諸葛孔明について書きたいと思います。

僕が吉川英治の三国志(全8巻)を読んだのはちょうど20歳の頃でした。

あまりに面白かったので、得意になって歴史好きの友人に話すと、「お前はまだ日本史もろくに読んではいないのに三国志を読むとは10年早い」と言われた。

それでも、「まあそう言わずにだまされたと思ってお前も読んでみろ!」と進めると、その友人も読み始め、「これは日本の戦国時代の話どころではない、壮大な大河ドラマだ!」と感動していました。

三国志の主人公は前半が曹操なら後半は諸葛亮だろう。

諸葛亮が正式の名前で、孔明は字、すなわちニックネームみたいなものです。
従って、孔明、諸葛孔明、諸葛亮と書くのは問題ないが、諸葛亮孔明と書くのは名前と字を同時に書くので宜しくない、とされています。

劉備玄徳も劉が姓、備が名、玄徳が字なので、正式には劉備玄徳とは書かないで、劉備とか劉玄徳と書くのが正しい訳です。

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400年続いた漢王朝もその末期は乱れに乱れ、黄巾賊が暴れ回り、領主は群雄割拠の争いになります。それを治めようとする大人物が現れます。曹操です。

曹操は、文武共に優れ、有能な人間、すなわち自分の覇業を助けてくれる人間を見分ける目があり、それを見方に引き寄せる能力と魅力を持っていました。

また、古い慣習や道徳に捉われず、「我天に背くとも天我に背くを許さず」という神をも恐れぬ信念で周りの自分よりも大きな領主たちを次々に滅ぼしたり味方に付けたりしていきます。

このあたり「天下布武」の織田信長に似ていると言う人がいますが、信長よりも一枚上手のような気がします。信長が似ているのはむしろ呉の孫策でしょう。

その頃、後に曹操の好敵手となる劉備は何をしていたかと言えば、領地も持たない居候みたいな生活で、常に敵に追われては逃げ回っていました。

劉備の特徴は何か?というと、合理的で利に敏い曹操とは正反対で、仁義と義理・人情で人を引き付ける魅力を持っていました。

関羽、張飛、超雲など一騎当千の武将が集まりますが、しかしながら、とても曹操に対抗する力はありません。

ところが劉備は水鏡先生という老人に出会い、諸葛孔明のことを知り、三顧の礼をもって孔明を軍師に迎えます。ここから諸葛孔明の目覚しい八面六臂の大活躍が始まる訳です。


孔明は自らを管仲、楽 毅に准え、また張良を尊敬していました。

管仲と言っても知る人は少ないと思いますが、「衣食足りて礼節を知る」という諺はご存知でしょう。実はこの諺は管仲の言が由来です。。
管中は孔子に匹敵する内容の道理を説き、斉の桓公を覇王に押し上げた人物でした。

樂毅は燕の人で、燕の昭王を助けて斉を滅亡寸前まで追い込んだ武将です。
楽毅は正攻法で味方の損害を最小限に抑える戦が得意でした。
斉の70の城を次々に落とした話は有名です。

張良は劉邦を助け、漢の建国を成し遂げた重要人物の一人です。
昔、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」という小説がベストセラーになったので読まれた方も多いでしょう。
始皇帝暗殺を企てたこともあり、強い意志をもっていました。

この3人を研究すると諸葛孔明の原型がある程度見えてくるように思います。
しかし、ハイドン、サリエリやモーツアルトがベートーヴェンに影響を与えたと言っても、ベートーヴェンはベートーヴェンであるように、諸葛亮はやはり諸葛亮でした。
諸葛亮の苦労と活躍は彼らの比では無かったと思います。

このように書くと「三国志演義は小説だろう」と言う人がいます。
確かに三国志演義は、7分史実3分創作と言われています。

赤壁の戦いの直前、孔明が一夜にして10万本の矢を作った話など、「曹操ならあの場合、火矢を放つだろう」と言ってしまえば話はおしまいです。

しかし、それは歌舞伎の勧進帳をみて「そんなことあるもんか!」と思うがごとく、無粋な気がするのです。

また、「南京事件30万人大虐殺」にからみ、中国史なんてそもそもが作り事でいい加減だ、と思う方がいるかも知れません。

しかし、共産党以前の中国、特に古代史では、

<王が記録人に「この箇所を削除せよ」言われ、記録人がそれを拒否して殺されると、その弟がそれを記録し、弟も殺されると、子が記録し、子も殺されると、親族が記録した>

との記述が残っている通り、その精度の高さは日本古代の記録など足元にも及ばない。とも言われています。

そんなことを総合的に鑑みながら三国志を読んだり観たりすると、また楽しみが増すのではないか、と思います。

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僕は、先月結婚した長男に亮と名付ける程、諸葛亮を敬愛しています。
なお、中国にも同じ理由で亮と名付ける親はいるそうです。

しかし、孔明と名付けるのは余りに直接過ぎて恐れ多いので避けるようです。
この辺りは日本も似ていますね。

今回、諸葛亮が100日余り陣を敷き長安陥落を目前にして病没した五丈原に行く事が出来、秋風に吹かれながら辺りを見渡すことが出来て本当に感慨深いものがありました。







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