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2019年08月14日10:42

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『まちまち』を終えて その2(私は俳優には向いていない)

前の発言にからむ形で、もう少し思ったことを。
 
前の発言で「プロの俳優というものが、いかに優れた技術を持った人たちか」を書いたが、それとは少し違う角度から、私自身は俳優向きではないと思った。主な理由は3つある。
 
 
1.言葉を話す能力はともかく、身体表現能力がダメ
 
はいはい、そんなことは最初から自分でもよく分かってますよ。だからせめて私に歌と踊りはやらせないで (´Д`) 
 
 
2.健康状態が不安定過ぎる
 
今回はこれに本当に泣かされた。異常な長梅雨で完全に体調を崩し、特に本番の3週間以上前にひいた夏風邪がなかなか治らず、ついには喘息症状を引き起こす始末。医者でたくさん薬を処方してもらったが、とりわけ咳止め系の薬は神経を鈍くさせるので、薬を服用してから稽古に行くと、レスポンスが悪くなる。特に歌や踊りはすぐにリズムがずれたりする。そして本番前夜には、夜中に酷い咳の発作が2回も起きて「こりゃ本番ダメかも…」と思ったほどだ。ただ当日は、薬の服用の他、うがい薬まで持ち込んで折に触れてはうがいをしていたため、幸い喉に問題は無かった。しかし稽古段階から、もう少し体調が万全だったら、もっと良いものが出来たのにと残念でならない。
今回に限らず、最近1年の大部分は何かしら健康状態に問題がある。命に関わるほどではないのだが、常に不調。特に最近は風邪をひいてばかりいるし、一度ひくとなかなか治らない。呼吸器系がすっきりしている日など1年に何日あるか、いや実は1日も無いのではないかというレベル。どうやら私は、死ぬまでこの不健康な体を引きずって生きていくしかないらしい。
それでも今のような仕事だと、毎日会社に通勤したり長時間接客したりといった作業はなく、パソコンに向かって作業する時間が多いから、かなりの不調でも何とか社会生活をこなせる。スタジオ本番でも、私は(声は出すが)あくまでも俳優に指示を出すだけで、私自身の声がそのまま放送に出るわけではないから、これも何とかなる。
しかし俳優だとそうはいかない。俳優は常にパフォーマンスが全てである。もちろん家で台本を読み込み自主稽古している時間もあるだろうが、やはり人前で声や身体を使ってパフォーマンスしてなんぼ。つまり身体を常にメンテナンスし、健康状態をベストか、少なくとも悪くない状態に保っておく必要がある。夏でも喉の保護のためにマスクをしている人がいるが、それも理解できる。
そんなわけで、たった1日の本番しかない公演でここまで体調管理に苦しみ、しかもそれが特別な状態でないことを思うと、健康な身体でのパフォーマンスが至上命題である俳優は、とても無理だわ (´Д`) この点でも「プロの俳優ってスゲーーーーッ!( ゚д゚)」と思うばかりである。
 
 
 
3.「言葉」の問題
一番書きたいのは、これ。本来は前の投稿に入れようとしたのだが、長くなるので別立てにした次第。
私は、文章を書く才なら並以上にある。そして書かれた文章を読むことも得意だ。読むだけなら、上手い役者よりは下手だが、下手な役者よりは上手いという自信さえある。
しかし、決まった文章を覚えて話すことが昔から非常に苦手だ。前二者の能力があって、なぜ文章を覚えて話すことだけができないのか。他の記憶力が並外れて悪いわけではないのに、おかしな話ではないか。
 
その謎が今回やっと解けた。
 
私は常に頭の中で文章を添削し続けているのだ!
 
 
「平久保のシイ」のモノローグは、実質的に編集皆無。最初のヴァージョンから一部修正したところもあるが、それはよく考えた上で自分で納得して書き換えたところ。つまり自分自身の思いを純粋に自分の言葉で綴ったものになっている。ところが、それでもなかなかきちんと覚えられない。ゲネプロの段階でさえボロボロ。これはさすがにヤバい!ということで、本番の合間に練習室で自主練をした(私は出番の関係で前半後半にそれぞれ30分近く泥縄の練習時間が取れる)。
誰もいない部屋で声を出しているのだが、どうしてもすんなり最後まで行かない。声を出して読むと、その文章に対してすぐ違和感を覚えるからだ。
たとえば1つ目のパラグラフから2つ目のパラグラフにかけて。
 

初めて本物のコダマを見ました。
「ヤッホー!」…そのコダマじゃありません。
映画『もののけ姫』に出てくる木霊(こだま)。
埴輪とてるてる坊主を合わせたような、木の精霊のことです。
 
平久保(びりくぼ)のシイは、驚くほど巨大で、曲がりくねっています。
木霊は、映画と同じように、その太い枝に並んでいました。
でも今は、動くことも、音を出すこともありません。
それは、大きなキノコという形に変わっていました。

 
まず、何度声に出しても、このつなぎは失敗だったと後悔した。1つ目のパラグラフは、最初に「コダマ」という音だけで謎をかけ、ボンヤリとしていたコダマなる何かが、3行目から4行目にかけて「あの木霊」として視覚的イメージを結ぶ流れ。ここで、映画を見ている人ならすぐに「あの木霊」を思い出してくれるし、知らない人も「埴輪とてるてる坊主を合わせたような木の精霊」と言われれば何となくイメージはつかんでくれるはずだ。この4行は我ながら完璧だと思う。
 
しかし、そこでせっかく聞いている人の脳裏に木霊が像を結んだというのに、2つ目のパラグラフで、話が突然「平久保のシイ」に飛ぶ。これでは台無しだ。カメラはあくまでも木霊に視点を据え、そこからズームアウトするような形で平久保のシイに視覚的イメージを移すべきである。ところがそうなっていない。
もちろん映画の編集に見られるように、ある場面から違う場面にポンと飛ぶことが演出として効果的な場合もあるが、ここは明らかにそうではない。単に本来のテーマが平久保のシイだから、無神経にそちらに視点が移っただけだ。演者として声に出すと、そのあまりの無神経さ、編集の粗雑さに必ず心がざわつく。不自然なつなぎ故に、2つ目のパラグラフがすぐに出てこなかったり、口には出してみたものの、その不自然さに心が引っかかり、意識がそこに残ってしまう。つまり「過去」に囚われることで、「今を生きる」という演劇の命題から外れてしまう。
 
さらに2つ目のパラグラフの2行目もいまだに引っかかっている。読むたびに、ここは本当にこの語順でいいのか?と逡巡してしまう。
 
A.木霊は、映画と同じように、その太い枝の先に並んでいました
B.映画と同じように、木霊は、その太い枝の先に並んでいました
C.その太い枝の先に、木霊は映画と同じように並んでいました
 
Aは、もう一度「木霊」に強引に視点を引き戻すには有効だが、その強引さ故に、ますます読んでいて心がざわつく。
Bは、読みの音楽的なリズムとしては最も美しい。だが視覚的イメージのつながりとしてはチグハグである。
Cは、平久保のシイからの視覚的イメージのつながりとしてはベスト。だが読みの音楽的リズムとしては一番不自然。
  
自分自身の言葉なのに、話し言葉として発したときに、どうしても口になじまない文章について、そんなことを延々と考え、どれが最も正解に近いんだと悩む。
 
そしてふと気づく。
 
 
「おい! 今は文章を考える時間じゃない! 文章を覚える時間だ!!」
 
 
全ての文章について、この繰り返し。だからいつまで経っても、モノローグが最後まで行き着かない。
 
これじゃ台詞を覚えられるわけないよな…(笑)
 
 
実に不思議なことだが、たとえば仕事や古典戯曲を読む会などで、既成のテキストを読む際には、こんな酷いことにはならない。書かれたものを読む場合は、素直にその文章に集中し、一定の枷の中で意味や情感を伝える方向に力を注ぐことができる。ところが書かれた文字情報を介さず、自分の脳内から言葉を紡ぎだそうとすると、脳の回路が途端に「パフォーマーモード」ではなく「物書きモード」になってしまう。
今書いていて、ふと気がついたのだが、だから私って日常会話が異常にヘタなんだな。自分の発している言葉に「これでいいのか?」と悩み続けてしまうから、会話としてのパフォーマンス能力が大きく低下する。ある意味 共演者(相手)と会話しているのではなく自分自身の発する言葉にしか関心が向いていない。道理でコミュ障なわけだ (´Д`)
 
 
長々くだくだと書いたのは、ある程度意図的なことで、他人と何かの話をするとき、私の脳内では常にこんなグダグダした面倒でウザい状態がカオスのように渦巻いていることを知ってもらうためだ。この文章を読んで感じたウザさこそ、私が常日頃から抱えている生きづらさの一端なのである。
 
ただね…個人が日常でどんな面倒を感じながら生きようが勝手だが、俳優がこんな具合に言葉について悩み続けたらどうしようもない。少なくとも私が演出家なら「グタグタ言ってねえで、とっととパフォーマンスしろ!それがお前の仕事だ!(こいつ熱心なのは分かるが、はっきり言ってウザい。二度と使わない)」と思う。俳優の仕事は「他人の書いた言葉を、自分の言葉のように話す」ことだ。他人の書いた言葉そのものを、あれこれいじり回すことではない。
 
こんな具合に「自分の書いた言葉」に対してさえ懐疑的にあれこれいじり回すような輩に、「他人の書いた言葉を、自分の言葉のように話す」仕事である俳優が向いていないのは、明らかだ。それがよく分かった。そして「他人の書いた言葉を、自分の言葉のように話す」俳優の能力に、あらためて敬意を抱いた。 
 
 
 
ちなみに引用した「平久保のシイ」の1つ目のパラグラフから2つ目のパラグラフへの飛躍は、聞く者が木霊のイメージを心に定着させられるだけの「間」をパラグラフの間に空け(3〜4秒)、その間に客席に向けていた自分の体を平久保のシイにゆっくりと向ける。つまり観客の視点を、私の体から平久保のシイに向けさせることで、飛躍のショックを多少なりとも和らげさせることにした。その「間」とアクションによって、自分自身の言葉に対する意識も、木霊から平久保のシイへと向けられる。こういう部分では何とか俳優らしい仕事をして本番を乗り切った次第だ。俳優とは、他人の書いた言葉そのものにクダクダ文句を言うのではなく、そういう創意工夫によって言葉を自分自身のものとし表現する仕事なのである。
 
 
見知らぬ他者とぶつかり合うWSは、普段出会うことの無い他者を知る格好の場だと思うのだが、実のところ、今回のWSでは、こんな具合に「自分自身」について知ることがたいへん多かった。もちろんそれを通じて、自分自身には無い能力を持つ「俳優」という人種を知ることも出来たのだが。
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