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2019年05月01日06:21

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タイタニックより三船殉難事件やヴィルヘルム・グストロフ号撃沈事件こそ映画化すべき。

タイタニックは悲劇かもしれんが、氷山なめて衝突して沈没しただけだろ? 三船殉難事件やヴィルヘルム・グストロフ撃沈事件みたいに戦火の下で犠牲になられた方々こそ、記憶すべき事件だ。

広島、長崎の原爆投下や東京大空襲に比べれば犠牲者の数は少ないかもしれないが、平和学習とやらで『戦争反対』を唱える連中は、ソ連共産主義の非人道的行為で多くの人命が失われた事に関して、とても無関心だと思います。


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ヴィルヘルム・グストロフ(Wilhelm Gustloff)は、ドイツのナチス党が工場労働者・農民・会社員等の一般勤労者に安価な海外旅行を提供するために建造した客船である。1945年1月30日にゴーテンハーフェン(現ポーランドのグディニャ)の港から東プロイセンの避難民や傷病兵を乗せて出航した後にソ連海軍の潜水艦に撃沈され、海事史上最大の犠牲者を出した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95_(%E5%AE%A2%E8%88%B9)


1945年1月21日、ソ連軍の猛攻(東プロイセン攻勢)にさらされる傷病兵や民間人200万人を、客船や貨物船、軍艦などあらゆる種類の船を動員してドイツ西部へ海路脱出させるための海上避難輸送計画「ハンニバル作戦(en)」が発動された。ヴィルヘルム・グストロフも同作戦に投入されることとなり、1月30日午後にゴーテンハーフェンを出港した。

公式記録では、乗組員173名、第2潜水艦訓練部隊の海軍軍人918名、海軍女性補助員(de)373名、傷病兵162名、難民4,424名の計6,050名が乗船していたとされ、この数字は厳格にまとめられたもので信用できるものと考えられる。しかし、出港後に乗船を懇願する難民を乗せた多くの小舟に取り巻かれ、少なくとも2000人以上の難民を急遽乗船させたので、実際に何人が乗船していたのかは不明である。元乗組員のハインツ・シェーン (Heinz Schön) が戦後調査したところに拠ると、当時乗客は10,582名、うち8,956名が難民ということで、ほとんどが女性・子どもであったと判明している。船は2,000名弱の乗客を想定して建造されていたが、レクリエーションのための共用空間の多い豪華クルーズ船だったため、そこに多くの乗客たちを押し込めることができた。ただし装備されていた救命用具は1万名を越える乗客の半数分に満たない数であった。

ヴィルヘルム・グストロフは21時頃、ポンメルン地方沿岸の 30km 沖合、グロッセンドルフ(Grossendorf、現ポーランドのヴワディスワヴォヴォ Władysławowo)とレバ(Leba、現ポーランドのウェバ Łeba)の中間地点でソ連潜水艦S-13に発見された。レーヴェに装備されていた探針儀は厳寒により作動状態になく、ドイツ側はS-13を探知できなかった。約15分後、約700m離れたS-13から放たれた4本の魚雷の内3本がヴィルヘルム・グストロフの左舷に命中した。船内にパニックが起こり、多くの難民が救命ボートや救命胴衣に殺到し、救命用具のいくつかは混乱の中で失われた。無線機は使用不能となり、ツァーンは発光信号でレーヴェに救援を求めた。

(中略)

魚雷攻撃から約1時間後の22時15分頃、ヴィルヘルム・グストロフは沈没し、多くの人々が凍る海に投げ出された。この時期のバルト海の水温は通常摂氏 4℃だが、この日はとりわけ寒さの厳しい日で、気温はマイナス10℃からマイナス16℃にまで下がり、海上には氷が漂っていた。レーヴェが472名を救出し、沈没直後に駆けつけた水雷艇T-36は564名を救出した。更に掃海艇M-341が37名、魚雷練習艇TS-IIが98名、貨物船ゲッティンゲンが28名を救出した。翌31日朝、難民輸送中の貨物船ゴーテンラントが9名を海から救い上げ、訓練魚雷回収艇TF-19が7名、監視艇VP-1703が乳児1名を救出した。沈没での生存者は1,216名(ドイツ語版では1,252名)、犠牲者は9,343名(ほとんどが一般市民で、半分以上が子供)とされているが、これは乗組員の生存者、ハインツ・シェーンの調査結果で、もっとも信頼できるものと評価されている。しかし、もともと何人乗っていたかが不明なため、実際の死者の数もはっきりとはわかっていない。事件直後は死者5000人、生存者964人とされていた。

ある証言者によれば、一発目の魚雷攻撃の1分後、船の通路は乗客の悲鳴や興奮で一杯となった。船内のスイミングプールだった場所に乗っていた別の生存者は、両手首を切った女性を見た。ほかの人々は甲板や階段で押し潰され、たくさんの人が暗く凍ったバルト海に飛び込んだ。さらに別の目撃談によれば、子供たちは大人にしがみつき、女性は乳児を守ろうとしていたが、次々に押し寄せる波が彼らをばらばらに飲み込み、多くの人はそのまま姿が見えなくなった。また、大人用の救命胴衣を着用した小さな子供達は脚が浮き上がって頭が水面下に沈み、溺れてしまったという。さらには、家族連れで乗船していた軍人が、絶望のあまり家族を射殺している場面も目撃されている。

ヴィルヘルム・グストロフが投入された避難民輸送では、2月10日に客船シュトイベンがまたもS-13に撃沈され、4月16日に貨物船ゴヤもそれぞれソ連潜水艦の雷撃を受けて沈没し、難民などに大勢の犠牲者(シュトイベンでは4,500名、ゴヤでは6,666名)を出している。1945年4月はじめまでに、ドイツ海軍は東プロイセンからドイツ西部への250万人の軍民を避難させることに成功したが、その過程で33,000人の難民や軍人が亡くなった。

ヴィルヘルム・グストロフはポンメルン地方(現ポーランド領ポモージェ)の沖30km、北緯55度07分、東経17度41分の深さ45mの海底に眠っている。


“平成最後”の『タイタニック』放送にSNS大盛り上がり
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=100&from=diary&id=5602610
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