先程、いじめ関連の記事があり、内容が良くて感心したが、いじめの記事を見るといつも思う。
義務教育って必要なの?と。
確かに、教育は必要である。
だが、集団の持つ危険性は、日本の歴史を紐解けば一番わかるのではないか?
何故、わざわざ集団とするのか?
まぁ、社開を紐解けば集団に結びつくのは致し方ないが、その為に義務教育はあるというなら、正直、もう任意制度にしても良い気はする。
既に、集団から個の時代へ変化もしているのだし、そもそも学校という閉鎖空間に押し込める時点で弊害は生まれる。
何故なら、学校は社会の縮図とも言える場所なのだから。
確かに学校が与える物もある。
しかし、不要なものまで与え、命すら奪う危険性のある場所である限り、そのレールから外せるようにしておく必要性はある。
が、それはできてるのだろうか?
全く無知でこんな批判を書くのはどうかとも思うが、義務教育があるから摘まれる才能だってある訳で、その方がより良い人材を生む可能性もある。
ただ、逆もしかりである。
無理になくせとは言わないが、考え直す時期ではないのだろうか?
試験的に義務教育を廃止する自治区等を奨励してみてもいい。
廃止は難しくとも、緩和は可能ではあるはずだ。
だが、無理だろうな。
しがらみが多すぎて雁字搦めで実現はしない。
見栄建前が席巻する日本社会では数世紀経てもそのくびきから抜け出せはしない。
加えて、資本主義という制度が足を引っ張るだろう。
何故なら、働きアリの製造は必要不可欠なのだから。
その蟻から税金を取り、バカな政治家どもに金を払うシステムであるかぎり何も変わらない。
かといって社会主義は閉塞しすぎる。
文明は進化し、そして人間も複雑化しすぎた。
増えた幸福の数だけ、解決策は遠のいていく。
そして問題も肥大化していくのだ。
解決が先かそれとも。
ただ幸運なのは、結論は数世紀中にも出ない事だけだろう。
その点、問題を先送りしてゆく政治家達は、理に適っていると感じるのだ。
負債はいつかはじけようとも、いつかはわかない。
だから逃避する事は安易かつ合理的ではある。
それは人生も同じである。
だから疑問視されても、義務教育は変わらないのだろう。
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