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2018年05月19日16:36

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エリートとは何だろうか

■網羅したかどうかを完成の基準にした人と、単に制限時間までがむしゃらに詰め込んで詰め込んだ総量で勝負しただけの人では、知識獲得や勉強する対象への認識が根本的に違う

■全IT技術におけるすべてのソフトウェアはうわべだけ見れば、膨大な量のルールの集まり。
これを詰め込み式の発想で覚えようとする態度
膨大な量のルールの集まりを、ただの詰め込み式の発想で網羅しようとすることと、
知識獲得の対象として考えた場合、ただ単に膨大な無数のルールの集まり以外の何物でもないという発想より一歩前進して、
知識獲得の対象に一定の規則性や体系を見出して、見出した規則性や体系から分類し、今獲得しようとしている個々の技術や
ソフトウェアが体系全体の中のどこに位置付けられていて、他の技術とどのような関係性を持っているのかを調べるという発想を
もつのでは何かが違う。


派遣社員を一匹契約するということは、たまたまプロジェクトに不足している技術分野に関する「1000〜5000ご前後の単語帳」を
一冊レンタルする発想。 一匹のレンタルされた派遣社員は、派遣先から、特定の技術分野の単語帳であると期待されている。
逆に言えば、自分が派遣される側の立場だった場合、自分はどの分野の単語を1000〜5000語全部暗記してるのか?

IT技術の一分野の単語帳の単語数は1000〜5000語くらいの単語の集まり。
そもそもたかだかひとつのソフトウェアに何で1000〜5000もの単語が要るのか不思議に思わないか?
工学や理学の高等教育を受けた者からしたら、たかだかひとつのソフトウェアにそんな数の専門用語をいちいち定義する必要はないの
ではないかと思う。
もしかしたら、標準プロトコルやデファクトスタンダードな技術に同じ意味もしくは同じカテゴリーの専門用語が既に存在していて、
ようは、これらの「標準語」との翻訳ができれば、1000〜5000語もの全く新しい専門用語を頭から覚える必要はないのではないか?
という発想になりはしないか?

それでも、現状のIT分野のソフトウェアをひとつマスターするには、1000〜5000語にも及ぶ膨大な数の専門用語のマスターを余儀なくされる。
コレラを何の疑いも持たずに、詰め込み式で頭に叩き込んで平然としている低学歴技術者と、
より一般的な技術体系や標準技術を念頭に置いて、これらとの関連性の中で、「無限の」IT技術やソフトウェアの習得に対峙している
高学歴技術者がいるという現実。


■もし、上記のような知識獲得対象が専門分野で、かつ、詰め込むだけではなく、対象分野の網羅を狙っていてかつ網羅の成果が着実に
進行している人材は、その対象分野に対して高い関心があり、責任を背負う覚悟を持って挑んでいるといえる。
成果が着実でかつ、責任を負う覚悟を持っているのだから、会社や社会が彼に仕事を任すのは当然である。

一方、がむしゃらに詰め込み競争にだけ夢中になっているだけで、対象分野が「網羅しうる」予感も「網羅するべき」という責任も
持たず、競争相手との知識量の差だけにフォーカスしてる人材は、責任を背負う覚悟を持てるはずがない。

社会のどんな分野であっても、その分野に対する責任を負う準備と覚悟ができてない人材がその分野を任せてもらえるはずがない。

専門分野に限らず、社会、人生、人間、政治、などの広い分野全体を網羅すべき対象分野と目標に置いている「意識高い系」な人は
その成果が着実でかつ、このような意識を持ち続けているのであれば、まさにその「広い分野」全部に責任を背負う覚悟に関しては
合格条件を満たしている。 さらに、その覚悟が結実して他の人よりもより高い成果を期待できる人材であれば、社会は彼をリーダーに
招き入れるかもしれない。

世間に「高学歴」と「低学歴」の壁があるといわれる。あるいは「エリート」と「ノンエリート」の壁があるといわれるが、
このような壁は、偏差値いくつ以上の大学を卒業したかどうかではなく、自分が覚悟を持って取り組むと決心した分野に対して
それを「網羅できる」という確信と「網羅しなければいけない」という覚悟の両方を持つに至って、実際にそのための「正しい」努力
を継続し、真剣に日々取り組み続けて成果を積み上げてきているかどうかにあると思う。

たとえば、少年時代に詰め込み式の受験競争を頑張ってやって、周りの受験生よりも詰め込み競争に勝ってそこそこの大学に合格したけど、
自分が取り組んだ勉強の対象が「網羅可能」という認識を持ててこれた(たとえその時点では網羅までできてなかったとしても)
のか、あるいは「網羅なんて無理だし、そんなことするだけ無駄」という認識のまま、地頭の良さと執着心だけで「勝負」にだけ
とりあえず勝ったってだけの人間を俺は「エリート」とは思えない。

そもそも可能かどうかは別として、その人材が責任を持って取り組む分野に対して「網羅なんて不可能だしやれるわけない」という
信念?の人間にとって、無限に対峙するであろう「未知」はどう映るのか? その未知は自分が責任をもって何とかすべき未知として捉えられるのか?
すべての「未知」は解決できる未知と解決できない未知のどっちかで、運が悪ければ解決なんてできっこないんだから、
運が良ければ解決するけど、運が悪ければ解決しないって漠然と考えるのか?
運が悪ければ天下り式に解決できない未知ならどうせ自分以外のだれがやっても解決できるわけないだろうから、
自分もそんな未知を解決できないことは悪いことじゃないし、だれも俺を攻める権利はないと本気で思っているのだろうか?

超一流の大学に合格した「高学歴」の人材に一つ言えることは、極めて高い確率で、
任意の対象を「網羅可能」であるという認識をもっていることだと思う。(たとえ今の時点ではできてなくても。あるいは、将来にわたって
自分がその分野を責任をもって網羅する担当にならなかったとしても他の担当者が網羅する役割を担ってやがて網羅されるにちがいないという
認識を持ち得ていること)
なぜ、一流大学に合格した人材がこのように「網羅できる可能性」を信じているかというと、
彼らが少年時代に決して広くはないけど、決して狭くもない「受験勉強」という領域に対してそのような確信を持ち得ていなければ、
彼らは成功をつかみ取れているはずがないと想像するからである。
網羅とは、ある分野における、あらゆる種類のあらゆる組み合わせの難問がでても、かならず正解を導ける方法が存在し、
それを備えているということである。
受験という特定の領域でそれを備えたからこそ難関大学に合格しえたわけだから、彼らには漠然とあるいは明晰に「網羅できうる」という
ことのイメージを獲得していると想像する。

話は飛ぶが、狭い特定領域ではなく、社会や人間全般に関する「難問」に対して「必ずその問題は解決できる」という信念の
根拠は、漠然とした問題をその問題を解く方法が用意されている分野にたどり着いて、問題を分割して、そしてそれらの分野
ごとに用意された正解を導き出せるという一連の予感のようなものを持ち得ている人材こそが、我々の社会のリーダーの素質がある。
コネがあるとか、詰め込み式の暗記が他人より速かったとか、何を専攻してきたかとか、何大学を卒業したかではないと思う。

上記の理由のように一流大学を卒業した人材に上記のような素質を有する者がいる確率が高いと思う。
人によっては、社会に出て仕事や人間関係を通じて自分の専門分野あるいは領域に対する確信や信念を持ち得る人は多いと思う。
しかし、一流大学を卒業した人材は、社会に出る前に、上記のような確信や信念を獲得する。

エリートとは、いはば、人生の飛び級を果たして将来、何らかの組織や分野やそして社会全体を担う素養と覚悟を持った人生の
飛び級をし続けている人ではないだろうか





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