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2018年01月21日15:35

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土佐の無能・横柄・岩村高俊。 バカが権力を振るい北越戦争や佐賀の乱がおきてあまたの人材が失われた。

西南戦争や戊辰戦争に比べて小規模だったのであまり歴史で注目されない佐賀の乱。

まあ不平士族の反乱と言われるが、その原因を作ったのは自称・坂本龍馬の弟子・岩村高俊といった明治新政府の無能で横柄な成り上がり官僚のせいでもある。

彼が佐賀県権令として、佐賀藩士を侮辱し反乱の火種を作ったといっても過言ではない


無能岩村

戊辰戦争では、新政府軍の東山道先鋒総督府の監察および応接係として転戦。北越戦争では山道軍を率いて越後国の長岡に迫り、小千谷の慈眼寺にて長岡藩家老河井継之助と会談する[1]。だが、「会津藩を説得する」という河井の嘆願を「時間稼ぎであろう」と全く聞く耳を持たず交渉は決裂、結果として長岡藩は新政府軍の敵に回って激戦が行なわれた。明治2年(1869年)には戊辰戦争の功で永世禄高200石を得た。

戊辰戦争期[編集]
北越戦争時に、山縣有朋が小千谷の新政府軍本営に着いた際、岩村は贅沢な朝食を地元の娘に給仕させており、激怒した山縣は土足のままその膳を蹴り上げたという。長州人の岩村への評価は「キョロマ」[3]であり、木戸孝允も同様の評価をしている(後述)。

長岡藩家老河井継之助は、本気で中立論を展開し、山縣有朋か黒田清隆との会談を希望していたが、岩村はこれを一蹴している。後年自伝では「途中で従うようになった信州各藩の家老は平凡な人材ばかりで、河井についても経歴・人物を知らなかったため、時間稼ぎをしているだけだと思った」と述懐している。 そもそも、長岡藩の他の家老達は新政府への恭順派が多く、出奔した者すらいた。また、長岡藩は意地になって潰さねばならぬほどの規模ではない小藩であった。この岩村の熟慮を欠いた判断が、長岡藩を奥羽列藩同盟側へ追い込むこととなった。その結果、北越戦争における新政府軍のみじめな戦果、長岡藩ほどの小藩の抵抗による想定外の大損害、一度陥落させた城を奪われるという軍事史的にまれな大失態を起こす。

河井と山縣或いは黒田清隆との会談が実現していれば、北越戦争そのものを避けられた可能性がある、会津藩への講和交渉を引き受けるとまで提案した河井に対し、一切の交渉の機会を与えなかったというのは、一軍の将として狭量と言える。しかしながらあくまで小藩である長岡藩の、こと他藩との折衝実績のない河井に列藩同盟との調停が可能であったかは疑問の残るところである。どちらにせよ河井を捕縛することなく帰してしまったことは失態と言って差し支えないだろう。


岩村は土佐の宿毛の生まれで、慶応3年に上洛した際には中岡慎太郎の陸援隊の尻尾について行動を共にするなどしましたが、志士の活動歴としはたったこれだけで、文久年間からの激動の波を潜った筋金入りの志士ではありませんでした。しかし、討幕軍の陸援隊の近くにいたという事実だけで、陸援隊に加入してから5ヶ月余りで東山道先鋒総督府の軍監に抜擢され、次いで、北陸道鎮撫総督府の軍監へと出世しました。こうした、時代の波に乗って幕末の修羅場をほとんど経験する事なく新政府軍の幹部に出世した土佐の幸運児に死命を制せられたのが、一代の傑物・河井の不幸であったともいえます。

慶応4年5月2日、何としても長岡藩の中立の立場を守り戦争を避けようとする河井と、長岡藩を潰そうと東征軍を率いて越後に進軍し小千谷(現在の新潟県小千谷市)を占領した岩村との会談(小千谷談判)が、岩村側が会談の場所として指定した小千谷の慈眼寺にて開かれました。この時河井は42歳、岩村は24歳で、二人は親子程の歳の差がありましたが、この頃から岩村は既に高慢で無思慮な性格であった事で知られており、また、小千谷まで破竹の勢いで進軍してきた岩村は、今まで諸藩の無能な門閥家老だけにしか会った事がなかったため、河村の事もそれらの家老と同じ単なる田舎家老の一人としてしか思っておらず、そのため会談は、岩村が一方的に河井を威圧する形で行われました。

岩村の尊大な態度に「この若造が!」と思いながらも河井は、中立の立場で会津・桑名両藩を説得するので今直ちに軍兵を進めるのを停止して貰いたいと熱心に訴えました。しかし「錦旗を掲げた官軍」という権威を背負っていた岩村は河井の申し出を悉く一蹴し、嘆願書さえ受け取らず、結局会談は僅か30分で終了しました。交渉が決裂し、しかも岩村には長岡藩まで“賊軍”扱いされたため、河井は開戦を決意せざるを得なくなり、長岡藩は、中立を守るという立場からそれまで一定の距離を置いていた奥羽越列藩同盟に加わり、ついに北越戦争が始まりました。

この小千谷談判での素っ気無い対応により、後年、岩村は長岡藩との戦端を開いた狭量な人物として評されようになり、しかも北越戦争で西軍が払わされた代償は「見込み違い」といえる程に大きかった事から、その見込み違いの要因は“岩村の若気の至り”とまで云われるようになってしまいました。

しかも岩村は、河井と十分な交渉ができなかっただけでなく、交渉の決裂により敵方の事実上の総大将となるであろう事が明白となった河井を捕縛せずに帰してしまったという認識の甘さも指摘される事となり、更に、長岡藩側からの攻撃が始まって激しい銃声を聞きつけた北陸道鎮撫総督府参謀の山縣有朋(後に長州閥の首領となり、陸軍元帥、第3代・第9代内閣総理大臣、元老などを歴任)が急いで小千谷の本営に駆けつけた時も、岩村を始めとする幹部達は戦況を無視して給仕を侍らせて夕食をとっていたという事も、岩村の評判の悪さに拍車をかけています。ちなみに、この時はさすがに山縣が岩村に詰問をしたのですが、岩村は銃声が聞こえていないフリをして「銃声など聞こえない」と言い出したため、その言葉に激怒した山縣は、土足のまま岩村の膳を蹴り上げたと云われています。


行政家として

佐賀県権令としても、ドナルド・キーンの「無能で横柄な岩村の抜擢は、最悪の選択だったと言える」との厳しい評がある。キーンの『明治天皇』によれば、岩村は佐賀藩士島義勇の前で佐賀藩士を侮辱し、彼を反乱側へと追いやったとしている


維新後、有栖川宮家令、宇都宮県・神奈川県の権参事を務めた後、明治7年(1874年)1月に佐賀県権令となり、内務卿・大久保利通の内意を受けて江藤新平を盟主とする征韓党の挙兵(佐賀の乱)の鎮圧に努めた。

もっとも木戸孝允は、この人選は大久保利通の佐賀を決起に追い込むための策略(すなわち岩村の性格ならば、必ずや佐賀士族を侮辱し憤らさせるような事態を起こすであろうことを見越したもの)であると看破し、後に大久保に対する人格批判への根拠として久米邦武に洩らしている。


■七賢人って?佐賀市民の25%、大隈重信すら挙げられず
(朝日新聞デジタル - 01月21日 00:12)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4951888
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