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2017年10月09日00:02

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う…運動会

以前住んでいた町会地区の運動会。
引越して20年以上になるが、顔の広いカミさんは外人部隊で毎年呼ばれている。

かつてこの町会にいた頃は毎年夫婦で参加して商品をしこたま貰っていたが、私はもはや足腰がやばいので役立たず。

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流石のカミさんも全力を出すのは怖ろしかったらしく、手抜きをしたと。
参加賞のゴミ袋やトイレットペーパーを貰って凱旋。

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夕方から一つ先の駅に最近出来たスーパー(安いらしい)まで買いだし。

隣町常盤台(駅名はときわ台)は、かつては「板橋の田園調布」とも呼ばれた瀟洒な高級宇住宅街であった。

昔は東京の外れの農業地帯だったこの街は、昭和10年頃から開発が開始され、当時の都市計画の理想型「田園調布」に追従したものだった事に由来する。
(何とかのナニナニ、ってのは絶対にそれ以上にはなれないという決意だな…)

大正時代後期から昭和初期にかけて、不動産会社や鉄道会社による郊外住宅地の分譲が次々に行われた。沿線開発と鉄道運営が一体となった日本独特の経営スタイルは、箕面有馬電気鉄道(のちの阪急電鉄)に端を発し、特に昭和4年に地方私鉄の兼業規制が緩和されてからは、各私鉄会社がこぞって沿線の不動産開発をはじめた。この頃に分譲された郊外住宅地で最も有名なものの一つに田園調布(東京都大田区)がある。田園調布は、渋沢栄一によって創立された田園都市会社が開発した住宅地である

「常盤台」の始まり
 昭和3年、東武鉄道は北豊島郡上板橋村(現在の板橋区)、現在のときわ台駅北側一帯の土地73600坪(24.2ha)を買収した。当初の目的は東上線と西板線(伊勢崎線西新井〜東上線上板橋の計画線)に連絡する貨物操車場用地だったが、西板線の計画は諸般の事情により幻に終わった。しかし、この土地は近くを流れる石神井川より一段高い台地上にあり、住宅地として好適な環境を備えていた。そこで、東武鉄道はこの土地を住宅地として開発することを計画した。これが「常盤台」のはじまりである。「常盤台」の名前は、ときわ台南側に位置する天祖神社の祝詞の一節からとったそうである。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=126353591&owner_id=258708

その高級住宅街も代替わりで税金に追われたのだろう、風情のある屋敷や昭和モダンの洋館はめっきり減り、切り売りされた小さな一戸建てやアパートに入れ替わってしまった。
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昔を知るものにとっては常盤台に安売りスーパー?と言うイメージは結びつかないのだが…
これも時代の流れ。

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あみ印炒飯の素、見つけた。
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