4月14日(金)
巻機山を下山した。
南魚沼市の旧塩沢町へ行った。
鈴木牧之記念館を見学するためだ。
鈴木牧之というのは江戸時代後期の越後の人だ。
裕福な商人で文人だった。
「北越雪譜」という本を出版した。
雪国の風俗・暮らし・方言・産業・奇譚などを正確に記録している。
当時の江戸ではカルチャーショックだったらしくベストセラーになった。
いまでも岩波文庫で読める。
わたしは高校生のときにこの本を読んだ。
江戸時代の雪国の描写はファンタジーの世界だった。
驚きと感動の古典名作だった。
それから鈴木牧之のことが気になっていて、ようやく故郷と記念館を訪れることができた。
館内は撮影禁止だった。
こっそり写したのもあるけど、公表することはできない。
鈴木牧之さんの記録や書画、そのほか塩沢地方の民俗資料が展示してあった。
受付のオバサンとお話が弾んだ。
「北越雪譜」を愛読している、巻機山に登った、と言うとめちゃくちゃ感謝されてしまった。
この記念館は商店街の裏手にある。
なかなか趣きのある通りだった。
商店街の名前は「牧之通り」だ。
通りの真ん中に鈴木牧之の生家があった。
ご子孫は江戸時代と同じ屋号の「鈴木屋」で酒店を営んでいる。
記念に鈴木屋の自販機で缶ビールを買った。
湯沢町へ行く。
今夜の宿泊は「ゆざわ健康ランド」にした。
値段は一泊2400円と安かった。
でも、設備は小さく古かった。
なによりレストランが夕方で閉まっていて、食べるものがカップ麺しかない。
不満を抱きながら仮眠室で就寝。
4月15日(土)
健康ランドをチェックアウト。
巻機山を横目に見ながら、長野県へ戻る。
長野市の松代というところに来た。
松代大本営を見学するためだ。
大日本帝国が山の下に作った巨大な地下坑道だ。
1944年11月から敗戦の1945年8月まで掘られた。
アメリカ軍との本土決戦を想定して、国家の中枢機能を移設しようとした。
松代の街の近く、三箇所に作られた。
どれも山の下の岩盤を爆破しながら掘り進んだ。
総延長は10キロを超える。
住宅街の細道の突き当りに象山地下壕の入口があった。
その隣に「もう一つの歴史館・松代」というのがある。
まずはこちらに入ってみた。
入場料は200円。
館内は撮影禁止だった。
ここは市民活動家たちが運営する自主的な資料館らしい。
展示内容は、松代大本営の工事には強制連行された朝鮮人が使役された、過酷な労働条件で死者も多く出た、慰安婦も4人いた、これらのことを忘れてはいけない、ということ。
関係者の証言や資料が狭い館内に貼り付けてある。
解説係のオバサンは親切で物知りな人だった。
知識豊富でいろいろ教えてもらった。
ようするにここは当時の日本が、朝鮮人にいかにひどいことをして地下壕を作ったか、という主張だ。
でもほかの長野市の公刊物などを読むと、地下壕で働いていたのは日本人のほうが多く、朝鮮人も待遇が良くて、余裕のある労働をしていたそうだ。
たぶん、どちらも正解なんだろうなあ。
現在でも、労働者に優しい優良企業に働いていても、待遇に不満を持ち訴える人がいる。
ブラック企業に勤めていても、なんの不満もなくやりがいを持って働いている人もいる。
松代大本営工事の朝鮮人も、恨みを持っている人の証言だけを集めれば、この資料館のようなものができるんじゃないか。
従軍慰安婦問題と同じだと思う。
隣の象山地下壕に入ってみる。
こちらは長野市が管理運営している。
入場無料で、ヘルメットの着用を求められる。
地下壕は網の目のように掘られ、6キロも続いている。
公開部分はそのうちの500メートルだけだ。
それでも往復で1キロの地下坑道を歩くことになる。
けっこう疲れる。
岩盤がむき出しで、削岩機や枕木のあとも残っている。
当時はダイナマイトで爆破しながら掘り進んでいったそうだ。
なかなか冒険心を煽られて楽しい。
外に出て象山という山を眺めた。
住宅地の中にある小さな丘だ。
この下に不気味な坑道が広がっているとは、どうも信じられない。
象山防空壕から2キロほど行ったところに舞鶴山地下壕跡がある。
いまは松代地震観測所に転用されている。。
この地下壕は天皇が移って来る予定だった。
天皇が住む場所を朝鮮人に作らせてはいけない、純粋な日本人にやらせろと宮内省が要求した。
それで童貞の男子が学徒動員で坑道を掘ったそうだ。
入り口があったけど、観測所用に改造してあって中を覗くことしかできない。
坂道を上がっていくと「こどもの家・恵愛学園」という建物があった。
この建物は最初は普通の民家だった。
大本営の造営で接収されて、天皇の仮御所に改造された。
戦争後は宗教法人が買い取り、孤児収容施設に転用され、最近空き家になった。
エアコン、防火設備、カーテンなどがそのままになっている。
忍び込めば少しは金目のものがありそうだ。
そこから200メートルぐらいで地震観測所の建物がある。
3つの棟がある。
天皇や皇后の御座所や宮内省の機関が入る予定だった。
1号庁舎といういちばん奥の建物には「天皇の間」がある。
ガラス越しに中を見ることができる。
天皇の居間として作られた。
覗いてみたけど、普通の畳部屋だった。
戦後に地震観測所の職員の宿舎として使われたこともあるのだろう。
安手の蛍光灯が天井に、古いコンセントが壁にある。
目立つのは建物の壁の厚さだ。
コンクリートで1メートル近くある。
原発の建屋のような頑丈さ。
戦争の攻撃から天皇を守るためだったのだ。
それにしても戦争で負けるとわかったときに、こんなものを作るなんてキチガイの集団だったのか?
まあ焦って混乱してたんだろうなあ。
権力者というのは、時にこういう愚かなことをする。
だから国民一人ひとりは、厳しい目で為政者を見ていなければならない。
などとネトウヨに言っても通じないだろうけど。
この地震観測所は長野市の外れだ。
田舎の景色が広がっている。
ここから長野市内を通り抜け、松本塩尻を下道で帰った。
渋滞に巻き込まれてひどいめにあった。
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