mixiユーザー(id:2778345)

2016年05月18日06:23

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新解 如来寿量品第十六−109(P386)

 このように、痛みとか苦しみというようなものは、いやな、歓迎されないことがらのようですけれども、じつはそれを通じ、それを仲立ちとしなければ、身体に恐ろしい不調和が起こりつつあることが解らないのです。
 肉体のことだけではありません。「三車火宅の譬(たと)え」にもありましたように、人間は、五欲の世界にひたりきっているときは、かえって身を焼き尽くそうとする業火(ごうか)に気がつかないのです。ところが、なにか心に悩みや、苦しみや、不安や、空虚さが感じられたときに、フッとわが身をふりかえります。そして、これでいいのか? いつまでもこんな心でいたらどうなるのだ? と反省するのです。すなわち、悩みや苦しみなどの自覚が救いのいとぐちとなるわけです。
 人生なにごとにしても、苦しいと感じるのは、その人の心や身体が調和を失っているのだという自然の警告なのです。そこで、「これはいけない」と気がついて、正しい教えに従えば、おのずから心が真理のレールに乗ってきますから、たとえ病気は治らなくても、貧乏からは抜け出なくても、それが苦しいと感じられなくなるのです。これが、大きな仏の救いなのです。
 仏の救いは、こういうふうに、一見救いではないような形で現われることがあります。それが「他事を示す」というのです。
 ですから、わたくしどもの会では、信仰上のことについて注意を与えられることを、「功徳」といっています。小言をいわれたり、注意を与えられることは、一応はいやなことであり、歓迎したくないことですが、それを通じて仏の救いの手がさしのべられているのですから、それをありがたく受けるところに、救いの実現があるわけです。
「他事を示す」というのは、非常に尊いことで、われわれの日常生活において、つねに心すべきことだと思います。


昼間は暑いですが、朝はまだ寒いです。
というま薄着過ぎるのかも・・・
わっはっは
ってな感じの
水曜日です。
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