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2015年12月14日03:12

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自分のためだけの覚書

現代の若者は、焦っている。生き急いでいる。

若くしての成功を求めている。

何をもって成功とするかだが、それは「出会う人たちから、敬意と称賛を浴び、自分が他者より優れている人間」になった場合に、成功を感じる。名誉欲が非常に強いと考える。

そして、自分の「何」に「敬意」と「称賛」を浴びせられたいのか、それがわかっていない。いや、どうすれば自分が「敬意」と「称賛」を浴びせられるようになるのか、それがわかっていない。

かつては「こんな人が、敬意と称賛を浴びせられる人なのだ」というモデルがあった。それは一種の社会的正義や、道徳や倫理の体現者であり、国、会社、学校、社会、地域、村、家などの、既存権力や秩序の保守に優れている人がモデルだった。

それを否定した、もしくは敬意と称賛を浴びせてくれる人が少なくなっていった。そうなると人々は、新たなモデルを求めだす。そして今の若者に残っているモデルは、

「20代から30代の内に成功し、金銭に不自由がなくなっている状態」

がモデルである。自分がそうなっていれば、周りは敬意と称賛を浴びせてくれるだろうと考えているのではないだろうか。何をもって成功とするのか、どれだけの金銭を得れば不自由と感じなくなるのか、その辺りが一切合切、あいまいなままで。

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昭和の時代、40代50代になって、金に不自由がなくなって、女遊び、男遊びをするような大人は、醜い人物として描かれた。しかし、20代30代での女遊び、男遊びは、成功者の証として、多くの映画や小説や漫画で描かれた。若者が既存の秩序に挑み、勝利し、成功を得るというストーリーなど、はいて捨てるほど存在する。

そういうストーリーで作品を作った、監督や作者や編集者を批判するというわけではない。売れるならそういうのを作るのが当然だ。何一つ批判されることはない。

私が考えているのは、40代50代の遊びは醜いが、20代30代の遊びは美しい。そう描かれた作品を読んで育った若者は、40代以上になってからの自分を、美しく考えられなくなるのではないだろうか。だから若いうちに美しくなろうとするのではないだろうか。40代50代に与えられる敬意と称賛のモデルがなく、実感できる状態を想像することが出来ないのだから。

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自分より優れている人が一人でもいたら、自分への敬意と称賛はなくなるのだから、優れている人を貶めるか、もしくは社会的正義の体現者の一人となって、経緯と称賛を浴びようとする。これは両方とも、生涯続くことになる。

ナンバーワンにならなくても、オンリーワンになればいいという。もしオンリーワンになることで敬意と称賛を浴びれるなら、オンリーワンではなくなった瞬間、どうなるのか。

実際には敬意も称賛もなくならないだろう。しかし、失われたと感じ、かつ、経緯と称賛を浴び続けたいと願った場合、オンリーワンの地位を守るために、自らを高めるか、相手を貶めるかが始まる。

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かつての成功モデルは、社会的正義や、道徳や倫理の体現者であり、国、会社、学校、社会、地域、村、家などの、既存権力や秩序の保守に優れている人がモデルだった。

経済的に成功した理由は、我欲を捨て、他者のために生きたからとされた。

それは確かに息苦しかっただろう。若者からすれば支配されていたのだろう。しかし壊してしまった結果、苦しんでいるのは、支配から卒業したはずの、かつての若者たちだった。
そして今を生きる若者たちも、苦しんでいるのではなかろうか。

保守主義の意義、存在価値、緩やかな変化、革命ではなく革新を求める特性は、こういう時のためにあるのだろう。
伝統を残しておけば、何かあったとき、そこに戻ることが出来る。

そのためにも、古いものは簡単に捨て去るべきではなく、大事に、かすかにでも、残しておくべきだ。なぜなら、「古いものを選ぶ」という選択肢が存在する場合の方が、「自由度」が増している状態のはずだから。

新しいものを生み出すことを否定することが、自由の否定につながるなら、古いものを壊せというのもまた、自由の否定につながると、言えるのではないだろうか。
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