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2015年12月01日06:51

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葉山町さんぽ「一色・長者ヶ崎から葉山御用邸と実教寺」

葉山町さんぽ「一色・長者ヶ崎から葉山御用邸と実教寺」

○「長者ヶ崎」(下山口)
逗子(新逗子)駅前から長井方面行きのバスに乗り、長者ヶ崎で降ります。「長者ヶ崎」は、葉山町と横須賀市との境に突き出た馬の背の様な奇岩が露出した岬のことで、大きく崩れ出したように突き出ているために「大崩れ」とも呼ばれています。国道から約500m海上に突き出ており、崖下一帯は荒磯と砂浜が広がっていますが、細長く突き出た崖や海中に立つ岩は絶景で、「かながわの景勝50選」にも選ばれています。また、江の島や伊豆大島などを一望でき、夕日の美しさでも定評がある場所です。この付近にお金持ちが住んでいて、その人は山に実を蒔き苗を植えて葉が茂り、その山を葉山といったという伝説があります。このことを、配流中の頼朝が三浦に向かう途中にこのあたりで休んだ際、案内役の芦名三郎為清が語ったといわれています。

○「県立葉山公園」(下山口1443)
長者ヶ崎から北に向かうと「県立葉山公園」があります。葉山御用邸に隣接する松林の美しい公園です。かつては御用邸付属の馬場でしたが、戦後、県に払い下げられて公園になりました。「ハマナス花園」でハマナスの花が咲くころ、目の前に広がる大浜海岸では、マリンスポーツが盛んに行われます。秋から春にかけては、潮騒を聞きながら海辺の散歩を楽しむ人が訪れます。知る人ぞ知る夕陽と眺望の名所でもあり、空気が澄んでいる日には、日没や海の彼方にそびえる富士山を望むことができます。

○「神明社」(下山口1455)
葉山公園の北に「神明社」があります。下山口の地域の鎮守ですが、本殿は近年焼失したようです。
【神明社の庚申塔】
神明社入口の石段の右側に4基の庚申塔があります。特に一番右の庚申塔は天明元年(1781)銘があり、高さが2m位ある立派な石像です。

○「万福寺」(下山口1515)
神明社の東方に「万福寺」があります。明応4年(1495)の創建。三浦38地蔵尊霊場22番札所。
【ボーイスカウト・ガールスカウト発祥の地】
本堂前に「ボーイスカウト・ガールスカウト発祥の地」碑があります。

○「下山口会館北丁字路の庚申塔」(下山口1550)
万福寺の東、下山口会館から北に入ると丁字路に3基の庚申塔があります。

○「葉山御用邸」(一色)
御用邸は天皇御一家の別荘のこと。葉山と皇室との関わりは、明治時代にまで遡ります。予防医学の見地から日本に保養の思想を導入し、天皇家の侍医でもあったドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツが「葉山は気候温暖にして風光明美、近代的な保養地として整備すべき」と強力に宮内庁に推奨。これを受けて明治24年に有栖川宮別邸、明治26年に北白川宮別邸が建てられ、明治27年に葉山御用邸が竣工となりました。昭和46年に焼失しましたが、昭和56年に再建。明治天皇が、葉山御用邸をお使いになることはありませんでした。大正天皇は頻繁に御滞在され、病気療養のため大正15年8月10日、葉山御用邸付属邸に行幸されました。しかし、12月25日午前1時25分、弱冠47歳で崩御されました。13日よりお見舞いのため御滞在中の皇太子・同妃両殿下(昭和天皇・皇后)は、直ちに「践祚(せんそ)の儀」を行われ、同日付属邸において天皇の位を受け継ぎ昭和と改元されました。昭和の年号は葉山で生まれたのです。現在、この歴史的な「践祚の間」は移築され保存されています。また、葉山御用邸付属邸のあった跡地、現在の「葉山しおさい公園入口」には、昭和改元の地を記念して「践祚の碑」が建てられています。昭和天皇は、葉山の海で海洋生物の研究を熱心にされ、生物学者であった昭和天皇の研究成果は、御用邸近くの葉山しおさい公園に公開展示されています。平成天皇は1〜2ヶ月に1度のペースで葉山を訪問されているようです。

○「しおさい博物館(しおさい公園)」(一色2123)
葉山御用邸の北に「しおさい公園」があります。葉山御用邸付属邸跡地に開設された公園です。三ヶ岡山を借景とした日本庭園には、流れ落ちる「噴井(ふけい)の滝」があります。茶室一景庵や潮見亭などの施設があり、海岸側にある黒松林からは、富士山や伊豆半島、大島などが一望できます。なお、当公園は大正天皇崩御・昭和天皇皇位継承の地として町の史跡に指定されており、園内には「葉山しおさい博物館」もあります。
【葉山しおさい博物館】
しおさい博物館内には、葉山周辺の海に生息する魚類、貝類、甲殻類、海藻類などが展示されています。中でも、昭和天皇のコレクションや深海生物の展示は当館ならでは。また、相模湾の海洋生物に関したオリジナルの出版物もあります

○「県立近代美術館・葉山館」(一色2208)
2003年10月に開館した「葉山館」(高松宮の別邸)は、神奈川県立近代美術館の3番目の建物です。葉山の一色海岸が目の前というロケーションに位置し、日本と世界の近現代美術を紹介する企画展を年間4〜5本開催しています。

○「石芋井戸(富士フィルム寮内)」(一色)
葉山近代美術館の向かい側が、現富士フィルム寮(旧秩父宮邸)です。富士フィルム寮の裏手に、「石芋井戸」があります。次の伝説が残っています。
《昔、1人の女が井戸端で芋を洗っていたところ、みすぼらしい旅の僧(日蓮上人)がそれを恵んで欲しいといってきたが、女はそれを聞き入れなかった。すると、帰ってこの芋を火にかけても半煮えで石のようにかたいままであったため、女は芋を捨ててしまった。芋は井戸に落ちて芽を出し大きな葉をつけた。女はそれを自分のものだと言って掘ったのだが、芋は1つも出てこなかった。それ以来、井戸からは清水が湧き出してこなくなってしまった。》

○「山口逢春記念館」(一色2320)
葉山近代美術館の北、三ヶ岡山(大峰山)の麓に「山口逢春記念館」があります。もともと山口蓬春(ほうしゅん)が最後の23年間を住んでいたところです。住居と画室が残されていて、そこで暮しながら制作した画家の感覚を偲ぶことができます。

○「森山神社」(一色2165)
戻って葉山御用邸の北東約400m、玉蔵院の西に「森山神社」があります。伝承では、天平勝宝元年(749)創建といわれる古社です。古くは隣接する玉蔵院とともに大峰山の山頂付近にあり、葉山の山岳信仰・修験道の中心であったとされます。裏山の大峰山をご神体として、この神社を創建したのが東大寺の初代別当である良弁僧正であるといいます。実際記録に現われるのは、天正19年(1591)に徳川家康が森山神社に三石の朱印地を寄進したものが初出になります。祭神は奇稲田姫・天照大神・日本武尊。天明元年(1781)に大峰山山頂から現在地に移りました。

○「玉蔵院」(一色2154)
森山神社の東に隣接して「玉蔵院」があります。森山神社と同じく、天平勝宝年間(749〜57年)に東大寺の別当・良弁が開基しました。葉山町最古の古刹です。裏山は特別緑地帯に指定されており、三ヶ岡山(大峯山)は修験道と関わりのあった山といわれ、かつてはこの山上にも堂宇がありました。三浦干支守り本尊霊場7番札所。境内には、葉山町天然記念物の大銀杏があります。
【恵比須(湘南七福神)】
海の近くにあることから、湘南七福神の豊漁・商売繁盛の神として信仰される恵比寿さまが祀られています。
【ほうき星さま】
境内の宝篋印塔は宝永4年(1775)に造立された仏塔で、高さ3.9mと大きなものです。宝篋印塔は、宝篋印陀羅尼を中に納めた塔でその陀羅尼(真言)は読むことで罪障を消滅させ災難から逃れることができるとされます。地元ではこの塔は「ほうき星さま」と呼ばれており、宝暦8年と9年(1758、59)に接近したハレー彗星を見て、当時東海地震(1707)以降富士山噴火(1707)、三宅島噴火(1712、1763)、浅間山噴火(1704〜1733ほぼ数年おき、1754にも噴火。1783は死者千名以上の記録的大噴火)、さらに宝暦6年(1756)の飢饉と災害・凶事が相次いでいたことから建てられたと推測されています。
【転輪】
六地蔵横には「転輪」の塔身だけ残っています。転輪は、輪をまわしながら念仏を唱えると救われるといわれるもので、県下でも珍しいものです。
【玉蔵院の庚申塔】
境内二か所に分かれて3基の庚申塔があります。その中に、寛文5年(1665)と葉山で最も古いとされる庚申塔があり、葉山町の重要文化財に指定されています。

○「一色前田の庚申塔」(一色1028、鈴木宅)
玉蔵院の東方に向かうと、一色小学校交差点の東方、道路から左斜めに少し入ったところ(鈴木宅前)に、全部で6基の石塔がありますが、道祖神1、馬頭観音1、千手観世音1、不明2、それに木造祠内に庚申塔1です。
【夜泣き石脇の庚申塔】(一色1193)
一色小学校交差点から北の坂道(下道坂)を上ると、すぐ右手上の木の下に2基の庚申塔があります。一番左の道路沿いにあるのが夜泣き石でしょうか。石塔が11基ありますが、六十六部塔1、四国巡礼塔1、地蔵(いずれも首なし)6、不明1、庚申塔2です。
【平松地蔵尊の庚申塔】
夜泣き石から下道坂を北に上り、しばらく行った坂上の三叉路を右折して、すぐ道路右側、平松地蔵尊の横に4基の庚申塔があります。
【町営平松住宅上の庚申塔】(一色1319)
平松地蔵尊から北に向かい、右折してしばらく行った左手に3基の庚申塔があります。

○「花の木公園」(堀内2145)
葉山町役場の前に「花の木公園」があります。4月下旬15000株のツツジがすばらしいところです。

○「実教寺」(一色1355)
町役場入口交差点から仙元山ハイキングコースに入ると、高台に「実教寺」があります。日蓮上人が布教のため、安房小湊を離れ横須賀から鎌倉に向かう途中、この地にあった路傍の石に腰懸けて休んだという伝説があります。大永年間(1521〜28年)その旧蹟にこの寺院が建立され、開山、開基は日意上人です。実教寺から眺める葉山の海は素晴らしいです。
【古将の墓】
境内、サルスベリの傍らに「古将の墓」があります。明治26年葉山御用邸が創建されるに当り、取り除かれた稲荷塚に埋葬されていた7人の遺骨を祀ったものです。武将夫婦と思われる遺骨を真ん中に、隣に少年、外側には従者らしき遺骨があったといわれ、明治41年にここに埋葬しなおされました。鏃(やじり)、槍、刀などの副葬品は腐食がはなはだしいですが、この寺に保管されています。平安時代以降、下山口に長者が住んでいたという伝説があり、その長者一家のものか、あるいは、室町時代の小田原北條氏と三浦氏との合戦の時、三浦勢の武士一家のものか、謎になっています。
【実教寺の庚申塔】
実教寺の山門階段を上がって、すぐ右手境内に2基の庚申塔があります。石塔が4基ありますが、庚申塔が2基、馬頭観音と思われるのが1基、もう1基は不明です。庚申塔の一つは、元禄9年(1696)銘の地蔵庚申塔です。地蔵庚申は、葉山町ではこの1基だけです。

○「道標地蔵菩薩堂の庚申塔」(堀内1808)
戻って町役場入口交差点から北西に向かうと、葉山小学校の西方の少し入ったところに、道標地蔵菩薩などが納められた木造堂に石塔が6基あります。地蔵2基、地蔵を彫った道標が2基、残りの2基が庚申塔と思われます。

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