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2015年11月04日01:26

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「風立ちぬ」再考

ずいぶん前に録画しておいた「風立ちぬ」を、ようやく観た。
すでに劇場で2回観ているので、これで3回目。
3回目にしてやっとこの映画の全体像が見えてきた気がする。

一言でいうと「風立ちぬ」は「矛盾」の映画ではないかな、と。
それは、美しい飛行機を作りたいという主人公の夢が、現実には戦争の道具としてしか実現し得なかったことに、如実に表れているわけだけれど、その他にもこの映画にはさまざまな矛盾が描かれる。
主人公と妻の関係もそう。
夫に病気をうつすかもしれないし、妻の病状を悪化させるかもしれないのに、あえて一緒にいる二人の行動も矛盾といえば矛盾。
結核を患う妻のそばで煙草を喫う夫の行動もまた象徴的。
非難の声が上がった喫煙シーンの多さも、健康に良くないのに吸わずにはいられない人間の矛盾した性を表したものといえるのでは。
喰うに困る子供たちがいるにもかかわらず、多額の予算で軍備増強に走る社会のありようの矛盾もまた然り。
つまり、人間の営み自体が、矛盾だらけだということ。
この映画が特異なのは、そうした矛盾を矛盾のまま描き出して、解決の処方箋を示さないことにある。

普通、物語において矛盾がテーマとなる場合、その矛盾を克服せんとするドラマが描かれるのが相場だ。
しかし、「風立ちぬ」ではそうしたドラマはほとんど描かれない。
主人公と妻のラブロマンスには一応ドラマがあるけれど、それにしたって二人の内面が掘り下げて描かれるわけではない。
そもそも主人公の内面がほとんど描かれないのだ。
主人公は自分が戦争に加担していることに、これといって悩んだり葛藤したりすることはない。
むしろ淡々と現実を受け入れているという印象。

おそらく宮崎駿はここで主人公が悩み苦しむ「ドラマ」を描くことは、贖罪につながると考えたのではないか。
この人も悩み苦しんだのだ、というドラマは、ある意味主人公に許しを与えてしまう。
いってみれば矛盾は克服された、という錯覚をもたらしてしまう。
それでは人々の意識は結局何も変わらない。
だからこそ、映画は矛盾を矛盾として突きつけたのではないか。

こうしたドラマを徹底的に排除した方法論で、映画が成立し得たのは、宮崎駿の超人的な演出力
による。
というか、こうしたとんでもない境地に到達した表現者が果たしてどれだけいただろうか。
宮崎駿、畏るべし。
長篇映画はもう作らないというのも、こうしたいわば物語を否定する境地に到達したからこそなのかもしれない。



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