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2015年06月18日01:17

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長まわしの映画

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(14)
監督:アレハンドロ・G・イニャリトゥ 撮影:エマニエル・ルベツキ

「神々のたそがれ」(13)
監督:アレクセイ・ゲルマン 撮影:ウラジーミル・イルイン、ユーリー・クリメンコ
美術:セルゲイ・ココフキン、ゲオルギー・クロバチョーフ、エレーナ・ジューコリ

「ザ・トライブ」(14)
監督:ミロシュラヴ・スラボシュピツキー 撮影:ヴァレンチヌ・ヴァシャノヴィチ



アカデミー賞受賞作「バードマン」は、撮影のエマニエル・ルベツキも賞をとっていたのですね。
「ゼロ・グラビティ」に続いて2年連続って、なかなかないこと。

ワンカットで撮ったかに見せている映画ってことで、ニューヨークの街の景色で夜から朝への移り変わりまで律儀に写しているけど、基本的にカメラは、マイケル・キートンを追いかけまわす。

編集技術で繋ぎ目をなくしている。
ルベツキの写真を見ると、結構細身。ガタイのいい人を想像していたら、芸術家風だった。
ステディカムは、腰で振動を吸収して安定した移動画面を生み出すものだし、
最近のカメラは、デジタルで軽いのかもしれないけど、
体力いると思う。
追いかけカメラはテレンス・マリックの「トゥ・ザ・ワンダー」でもルベツキがやっていたから、
この映画でもそうしたルックスを求めた結果、彼が担当したのだろう。

イニャリトゥの映画はシニカルな視点が入っているもので、
今回はSFチックな場面も含めて、次第に混沌を深めていく。
ただ、舞台の映画であって、ブロードウェイの芝居がどういうものか、となると、
ベテランの批評家が大キライだというくらいに、
ハリウッド俳優との違いがあるものか、どうか、
舞台に対する愛情は感じられない気がして。
マイケル・キートンは舞台の演出もしている設定なのに、自分の出番以外は楽屋にこもっていて、演出はどうなった?といいたくなる。

カサベテスの「オープニング・ナイト」のようには、絶賛はできない。


「神々のたそがれ」は、撮影の方法論としては「バードマン」と同様に、主人公を追いかけまわすカメラなのだが、こちらはフィルムである。

カメラマンのうち、ユーリー・クリメンコはパラジャーノフの「スラム砦の伝説」も手がけた人で、
ウラジーミル・イルインは、ゲルマンの「フルスタリョフ、車を!」(98)でもカメラスタッフだった。

92年のレンフィルム祭では、富山ではゲルマンの映画は上映されなかった。
その後、新宿の映画館で「フルスタリョフ、車を!」(98)を見た記憶はあるのだが、
途中寝てしまい、あまり覚えていない。雨に濡れたような暗い光の中、まわりがけたたましく騒いでいるところを追いカメラでずんずん進んでいくイメージだけは残っている。

「神々のたそがれ」は衝撃的だった。

全く物語を語ろうという気がないとしか思えない。
最初のうちは、主人公であるドン・ルマータのナレーションが入り、設定については理解できるのだが、その後はほぼ、混沌を深めていくばかりであり、また、どんどんグロになっていく。

主人公が領主であっても、住まいは洞窟さながらで、雨盛りしてくるし、テーブルの上は喰い散らかしたままだし、お付きの奴隷は何どきでもカメラの前を横切るし、つばは吐くし、鼻水はすするし、だいたい主人公がじっとしていなくて、絶えず動き回っている。

ポスターでは登場人物がタイトルのまわりに配置されているが、そうした登場人物を紹介するように見せようという意思も感じさせない。

異星の土地は、どろどろにぬかるんでいて、歩くたびにぴちゃぴちゃいう音がいやらしい。
領地の人々の姿も同様に異形な雰囲気であって、井戸のようなところに閉じ込められる者がいたり、死体がつるされていたり。

「バードマン」では、主人公は長まわしの中、そんなに多くの人物と絡むことはないのだが、
「神々のたそがれ」では、ワンカットの中で、どれだけの人物と出会い、どれだけの出来事が起こっているのか、画面の外からも常に音声が聴こえてくる。
こうした世界を造り上げることには、どれほどの執念と忍耐が必要だろうと思う。

ストルガツキー兄弟の原作の題名は「神様はつらい」であり、主人公は3回、そのセリフを述べるのだが、2回めは外からの声で全く聴こえない。

これだけ無茶苦茶な中、何故か主人公はサックスのような楽器を奏でたり、口笛を吹いたり、
ドラムをたたいたり、と、いう場面がちらほらとある。

河が出てくる場面では、ロングのフィックス画面になって、何だかほっとする。

白黒の陰影の深さが実に効果的で、夢のようである。

ヒロエニムス・ボスの絵を拡大鏡で見ているようでもある。



「ザ・トライブ」の長まわしは、この2本とはちょっと違う。

冒頭、主人公がはじめて学校に入る場面は、子どもに花を持たせて庭から校舎に入ってくる様式的な演出で、アンゲロプロスを彷彿とさせる。

いちばん印象に残ったショットは、主人公が食堂でご飯を食べようとしてした時、テーブルの前の子に食事をとられて、そのすぐ後に、歩いてきた生徒に連れられて、子どもたちが遊んでいるグラウンドみたいなところに出て、校舎の裏側にまわるところ。

今までは表向きだったけど、これからは裏側を見せますよっていう転換をすべて長まわしのワンカットで見せている。

その裏側には、生徒のボスがいて、主人公の服を脱がせるのである。

ワンシーンワンカットではなく、ワンシーンスリーカットぐらいは有機的に結びついている。

カメラはやはり、ステディカムらしいのだが、先の場面でみれば、校舎の裏にまわったら、人物のフルショットのフィックスでカメラは全く動かない。フィルムではなくて、デジタル。
カメラマンはドキュメンタリー畑の人だという。

監督のインタビューによれば、役者さんは本当にしゃべれない人たちで、演技経験がなくて、ホントに町中で荒れた生活をしているような若者たちばかりだという。

インタビュー記事がよく出ている、ヒロインのヤナ・ノヴィコヴァは劇団に入っていて演技経験があったそう。

デジタルなので、夜の場面の照明は大分しぼられている感じである。
内容は過激で、セリフも字幕もない。
もちろん、セリフがなくても十分伝わる。

惜しむらくは金の流れをしっかり描いてほしかった。ブレッソンならそうしただろう。
彼らは何故、あんなにも金を手に入れたがるのか、一部を除いて
その必要性がよくわからなかったのである。

ちなみにウクライナ映画であって、撮影は内乱が起こっている最中に行われた。
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