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2015年04月21日00:21

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「アメリカン・スナイパー」にはじまり・・・「まれ」に至る

クリント・イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」を観ていると
彼の出世作「ダーティ・ハリー」(71)を思い出す。

「ダーティ・ハリー」の冒頭のシーンは、プールで泳いでいる水着の女性が写り、カメラがズームアウトするとビルの屋上だとわかるのだが、そこで狙撃されてしまう。

「スナイパー」も最初のターゲットは女性である。
彼が狙撃する対象は、他に老人であったり、子どもであったり、
そんなに悪そうにみえる「蛮人」ではない。

それまでの映画の中のブラッドリー・クーパーを観ている者にとって、この映画に出てくるブラッドリー・クーパーは、幼い頃から射撃の素養はあり、ロデオで賞金稼ぎをするような男であっても、やはり、海軍に入隊してからの肉体改造で、あの姿になったと見える。

改造人間であるブラッドリー"クリス・カイル"は、「ダーティ・ハリー」の敵役"スコーピオ"のように、女性や子供を脅かす存在となっている。

スナイパーは、「隠れて敵を撃つひきょう者」とマイケル・ムーアに指摘されているが、映画の中では斥候としてビル内に突入して、敵組織の上層部の手かがりを得るという場面や、食事の招待を受けたイラク人の家の様子がおかしいとして、家に隠し持っていた銃器を発見するエピソードもあり、イラクにおけるブラッドリーは、まるで"ハリー・キャラハン"刑事といっていい。

では、この映画で描かれる敵役はというと、
組織のボスは悪そうな感じに見える顔だし、米軍に協力した長老を残虐に殺す場面や
アジトで人体解剖を行っていたようなサノバビッチ的描写もあるのだが、
それ以上に、クリス・カイルがやっつけたいと追うのは、敵側のスナイパー"ムスタファ"である。

そのスナイパーに仲間がやられていく。

映画の中では、オリンピック・メダルを下げた写真も写り、しなやかな動きでライフルを組み立てて(イーストウッドはわざとゆっくり動くように指示した)、スマートな男として描かれる。

ムスタファの方が、天才的であるように見える。

要するに連続テレビ小説「まれ」でいう、「地道にコツコツ」で改造されたブラッドリー・カイルに対して、才能もあって夢を達成した男、ムスタファという対立軸もみえてくる。

クリス・カイルが米軍最強のスナイパーであったとしても、ハワード・ホークスの「ヨーク軍曹」のゲーリー・クーパーのように、帰国したら町をあげて英雄扱いされるなんてことは全くなくて、
写っていないテレビを前に緊張が抜けない、壊れた男でしかなくなっている。

そんな時に妻シエナ・ミラーは、賢くて美しい人として描かれていて、夫の異変に気付いてうまいこと、病院に連れていく。


そのシエナ・ミラーが、全く異なった妻役を演じていたのが、「フォックスキャッチャー」。
ベネット・ミラー監督は、丁寧に描写を積み重ねて、人間関係の寒さがぞくぞく伝わってくる映画になっていた。
チャニング・テイタムは、レスリングの金メダリストでありながらも、孤独を抱えて、一人で練習しているという冒頭の場面からずっと。
デュポン財閥のスティーブ・カレルも同様に孤独を抱えていて、そうした二人が近づくことも理解できる。
同じレスリングの金メダリストである兄のマーク・ラファロは、陽気で指導も的確で、人に囲まれてる。その妻、シエナ・ミラーとも仲がいい。
弟が兄が気に障るということが、セリフがなくても伝わることで、後々の展開につながっていく。


そのマーク・ラファロが、落ちぶれた音楽プロデューサーを演じているのが「はじまりのうた」。
ミュージシャンでもある、アイルランドのジョン・カーニー監督は、音楽の力を、外へ外へ
どんどん開放的な方向に持っていくことで、単なる音楽映画に止まっていない。
キーラ・ナイトレイが夜のライブハウスで歌っている、閉鎖的な画面から、みるみるうちに、
ニューヨークの町中に飛び出して、さまざまに歌いあげるような場面へと。

初めて出会ったライブハウスで、マーク・ラファロとキーラ・ナイトレイが、「本物だと思うミュージシャン」として同意するのが、「ランディ・ニューマン」
というあたりは、映画音楽ファンとしてもうれしくてたまらない。

ミュージシャンとしての成功は、才能だけでなくて、プロデューサとの出会いが必要だということは、「あまちゃん」でも描かれているとおり。

先週の「まれ」の中では、ロールケーキコンテストに参加したまれが、見事に落ちて小日向文世にはボロクソに言われる。「パティシエは日々修行」

夢がきらいで、毎日こつこつ

というのは、何か違うと思っていたところ、
オリンピックで金メダルをとる夢をかなえるためには、地道にコツコツ、日々の練習が必要なわけで、才能だけではそんなことはできない。

とかくありがちだったドラマは、「俺様」系で最初から天才として登場して、もちろん試練はくぐりぬけて成長はしていくが、選ばれた者であるというもの。

朝ドラは、「花子とアン」にしても「マッサン」にしても偉人伝でもあって、成功者のドラマになっている。それがこれまでの伝統。

「あまちゃん」は、それを崩して、成功をつかみかけて運命に翻弄された主人公を描いたことが
革命的だった。

「まれ」も基本的な企画は、「あまちゃん」と「ごちそうさん」のおいしいところどりみたいなところがあったかもしれないけれども、
土屋太凰が、パティシエ目指して改造されていくのか、どうか、今後の展開がたのしみである。
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