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2014年12月27日05:54

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あきる野市さんぽ「五日市街道・もみじ塚から正光寺(五日市七福神)」

あきる野市さんぽ「五日市街道・もみじ塚から正光寺(五日市七福神)」

○「えびさわみちの道標(千代原公園)」(上代継130)
五日市線秋川駅から西に向かうと、西中学校西隣の千代原公園の南西角に「えびさわみちの道標」があります。道標の東側は「判読不能」、北側は「ひきだ(引田)・ゑびさハみち(海老沢道)・平井村」、南側は「有志者 平井村・・・略」、西側は「明治25年10月 ○○発起 平井村 ○○」とあります。道標の東側の部分には、秋川市教育委員会平成6年発行『秋川市ふるさとの道』によると、「闇乃夜に 外さぬ術や 風光る」の句が刻まれているようです。この道標は、明治時代にこの地域で名医仁医として名の高かった引田の海老沢峰章氏を顕彰する意味で、峰章が夜中でも治療に通った平井村・菅生村の有志が、明治25年にその道の中途、平井村と引田村の境に建てたものだそうです。人々はその道を「えびさわみち」と呼びました。この道標は、元は阿伎留病院の北側、現在のイオンの向いにありましたが、都道の拡張時に近くの千代原公園に移設されました。えびさわみちは、再開発で消えてしまいましたが、何とかその道を探して南方にある桜木稲荷神社まで畑の中の道を歩いてみました。
http://starling.jp/old/ebisawa/ebisawa.htm

○「桜木稲荷神社」(引田442)
千代原公園からえびさわみちを南に向かい、睦橋通りと五日市街道の合流点である渕上交差点の西方の交差点に出ます。五日市街道の信号のある交差点から北に向かうと、小さな赤い祠の「桜木稲荷神社」があります。神社の横にある古い山桜が、神社に因む名のようです。
http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=1594
【桜木坂】
桜木稲荷の前から北西に上る坂が「桜木坂」と呼ばれています。
【連木坂】
武蔵引田駅の南側を南西に下る坂が「連木(むらぎ・むなぎ)坂」と呼ばれています。坂名の由来不明。地元では、「ネン坂」ともいっています。
【えびすや坂】
今下ってきた道、五日市街道の淵上と引田の境の原店バス停そばから、北に入り北東に上る坂は「えびすや坂」と呼ばれています。いつの頃か不明ですが、エビスヤ屋という店が近くにあったので、こう呼ぶようになったといいます。この道はまた「えびさわみち」とも呼ばれます。
http://starling.jp/old/ebisawa/ebisawa.htm

○「もみじ塚」(引田)
桜木稲荷神社の南西、五日市街道の引田交差点の東側の交差点北東角に「もみじ塚」があります。昔からもみじが植えられているので、この名があります。並んでいる石仏は、左に嘉永5年(1852)建立の「寒念仏塔」(寒念仏とは、寒中30日間鉦を叩きながら各所を巡って念仏を唱える修業)、右に庚申塔、その右に2基の石造物があり、一つは神送り場にあったという寒念仏供養碑と思えます。この塚は、現在は周囲を大きく削られてしまっているものの、かつては塚の中央にもみじの大木があり多くの石像物が立てられていたそうです。平成元年に行われた発掘調査では、盛土の下にある2基の土坑のうちの1基が配石をもち、一部が焼けて覆土にも炭化物が認められたそうです。また盛土の下部にも炭化物が認められ、盛土を築く直前に火を用いた痕跡があり、更に盛土の土も特別なものを選んで塚を築造しているそうで、明らかに何らかの目的を持って築造された塚のようです。「東京都遺跡地図」のインターネット公開版では、規模が15×15m、高さ1.5mの近世の塚であるとされています。このもみじ塚は、かつては塚が3つあったといわれていて、その一つを誰かが掘ったら青銅の鏡が出土したという言い伝えもあるそうです。ひょっとして、周辺に古墳群が存在した可能性もあるのかもしれませんが、詳細はわかりません。周辺には、古墳か塚だったのではないかという祠も見られ、もみじ塚からは300mほど離れていますので、3つあったといわれる塚との関連は定かではありませんが、なかなか思わせぶりな祠です。
http://morinosei2.cocolog-nifty.com/polter/cat23011163/index.html

○「神送り場」(引田)
引田交差点の南西方向、引田と山田の境の五日市街道の南側の辻が「神送り場」です。昔、疫病が流行ると村人が集まり、疫病を村の外へ送り出す祭りを行った場所でした。今は新しい延命地蔵のみですが、道標を兼ねた寒念仏供養碑があった(もみじ塚に移設)といいます。

○「天神社」(山田820)
神送り場から西に向かうと、下山田交差点の南西角に「天神社」があります。山田下分鎮守。祭神は菅原道真公。「山田の天神さま」と呼ばれています。社伝によれば、貞治・応安(1362〜75年)のころ、足利基氏の母瑞雲尼の創立で、社号は古くは天満宮と称し村内能満寺持ちの常照寺が別当でしたが、明治の神仏分離令により天神社と改めました。
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/2192ab63a0d72277ed2359f9d4f034a8

○「能満寺」(山田879)
天神社の西方、山田バス停の南に「能満寺」があります。創立は応永5年(1398)で、開山は広徳寺開山の心源希徹禅師、開基は瑞雲寺殿喜渓忻大姉です。古くは秋川を隔てた向かい側にありましたが、元亀3年(1572)に現在地に遷し再建されたと伝えられます。
http://www.otelife.com/showTemple/summary/pk/15272

◎『旧伊奈宿』
五日市街道は山田交差点から「旧伊奈宿」に入っていきます。伊奈宿は東の「新宿」と西の「上宿」とからなっていました。山田交差点から五日市街道の一本北側の道(旧五日市街道)を西に向かいます。旧街道の面影をのこす家並みの中をすすんでいくと、左に折れる道とややくねってそのまま延びる道に分れます。左折して五日市街道に出ると、向かい側に新宿会館があります。「新宿」は東の伊奈宿です。旧道に戻ってまっすぐ進むと、増戸小・中学校の前をとおりすぎて増戸会館前で階段の坂を下ると、伊奈バス停があります。伊奈バス停の北に少し入ると、「塩地蔵尊」と「千日堂跡」の石柱が立っています。この辺りから西が「上宿」のようです。
「伊奈」という地名は、伝承では平安時代の末期に信州伊奈谷から12人の石工たちがこの地に移り住んで、開いたといわれています。石工たちはここでとれる伊奈石で、石臼、五輪塔、お地蔵さん、墓石など多くの石造物に加工しました。石臼は、多摩の各地で広く使われたといわれています。江戸城修築の際には、伊奈の石工たちが動員されました。伊奈は小田原北条時代には、すでに宿場として発達していました。その後、江戸時代初期には秋川渓谷の谷口集落として、山地と平野の物資交換の市が発達しました。伊奈市とよばれて、毎月6の日に市が立ち、農具・衣類・木炭・伊奈石加工品などが取り引きされて賑わいました。その後、木炭の需要が高まるにつれ、同じ谷口集落であり地理的には伊奈より有利な山手の五日市にも市が起こり、伊奈の六日市に対抗してその前日の五日に市を立てるというえげつない考えでした。両者で相当長い間、市をめぐる争いも続きましたが、結局伊奈市のほうは衰微してしまいました。そして、繁栄は五日市に奪われる結果に終わったのです。いつしか街道の名も伊奈道から五日市道にかわっていきました。旧道は、新秋川橋東の信号で広い道路から分れ右の坂道を下りていきます。
【五日市街道】
「五日市街道」は、杉並区高円寺で青梅街道から分れ、武蔵野市・小金井市を通り、あきる野市に達する街道です。江戸時代初期は「伊奈道」とよばれ、秋川谷で焼かれた炭荷を江戸へ運ぶ道として利用されていました。その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道などいろいろ呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついてきました。明治以降、五日市街道といわれるようになりました。

○「伊奈の市神」(伊奈1528)
新秋川橋東の信号の手前、伊奈坂上バス停の近くの上宿自治会館の標識の隣家の庭先に、小さな石造りの祠に寛文2年(1662)建立の「伊奈の市神」が祀られています。市内の在銘の石祠では最古で、風化著しくかろうじて年号だけが読めます。
http://starling.jp/bike/tour/090125/report.htm

○「明光寺」(伊奈1463)
伊奈の市神の北方に「明光寺」があります。創立は康安2年(1362)。開山は戸倉の光厳寺9世星丘集禅師で、開基は不詳です。室町時代に足利家より寺領の寄進があり、後には徳川家より代々御朱印5石が寄せられていました。シダレザクラが有名です。
http://www.otera.co.jp/tokyo/info.php?tid=178626

○「成就院」(伊奈1568)
新秋川橋東の信号の北側に「成就院」があります。横沢の大悲願寺の末で、文明元年(1469)大悲願寺7世重賢退院の時に開創されました。本尊は木造不動明王並びに童子。昭和初期には尋常小学校として、また昭和14年には農繁期託児所として本堂を開放しています。
http://www.otelife.com/showTemple/summary/pk/15252

○「正一位岩走神社」(伊奈1575)
成就院から旧五日市街道を北に向かうと「正一位岩走神社」があります。創立は不詳ですが、仁平2年(1152)7月,信濃国伊那郡の住民12名が当地に来て一村を開き、本国に鎮座する戸隠大明神の分身を勧請したといいます。寛政6年(1794)に正一位の神階を許され、正一位岩走神社と改称しています。神社社家は、近代女流歌人三ヶ島葭子(みかじまよしこ)の生母の実家になります。神社の前の道が旧街道です。秋川の清冽な流れの北岸に沿って、静かにたたずむ横沢集落は五日市街道随一の風景です。ここに千本格子の旅籠一軒でも残っていればと思わざるを得ません。
http://www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=1456

○「五日市ファーマーズセンター・愛菜」(高尾3-1)
旧街道を進めば「大悲願寺」がありますが、ここは現在の五日市街道に戻り、西に進むと「五日市ファーマーズセンター・愛菜」があります。それほど広い直売所ではありませんが、地元産の野菜や加工品を中心に種類も豊富に並んでいます。春先にはこの地方特産の野菜「のらぼう菜」、そのあとタケノコ、梅、トウモロコシ、秋には秋川栗というように季節、季節の野菜がいっぱい出まわるそうです。
http://www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=3553

○「正光寺(武蔵五日市七福神)」(舘谷)
さらに五日市街道を西に行くと、五日市橋交差点の南に「正光寺」があります。本山は藤沢の遊行寺。嘉元3年(1305)、二祖他阿真教上人が当地に巡化の際開創されたものと伝えられています。秋川流域で唯一、浄土宗の流れをくむ時宗の寺院です。本尊は阿弥陀如来立像(脇に観音、勢至菩薩を従える)で、作者は江戸の大仏師法橋光清(1681年作)です。武蔵五日市七福神のひとつで、弁天様は弁天堂に安置されています。
http://marunisasarindou.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-1dd7.html

○「秋川河原の伊奈石矢穴跡」(三内)
五日市橋の北側の秋川河原沿いにある伊奈石の層は、かつて五日市湖を形成していたといわれています。秋川河原沿いの岩には、伊奈石採掘遺構として、今も石を切り出したときの矢穴跡が残っています。
http://www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=1451

○「舘谷八幡神社」(舘谷159)
正光寺の西に「舘谷八幡神社」があります。祭神は応神天皇。寛文2年(1663)の検地帳に「御除地畑五畝六歩八幡免正光寺持」とあるのみで、起源・由来は不詳。もとは八幡大明神と称しましたが、明治維新の際に八幡社と改めました。
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/77c1f05d32673575533c3496ac5d6d62

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