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2014年12月13日06:56

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瑞穂町さんぽ「加藤神社・エコパークからシクラメン街道」

瑞穂町さんぽ「加藤神社・エコパークからシクラメン街道」

○「天空モニュメント(箱根ヶ崎駅西口)」(箱根ヶ崎)
箱根ヶ崎駅西口は再開発されロータリーが完成し、新たな発展、飛躍を誓うシンボルとなることを願って、瑞穂町制施行50周年記念で制作されたモニュメント「天空」が移設してあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E3%83%B6%E5%B4%8E%E9%A7%85

○「加藤神社(加藤塚)」(箱根ヶ崎315)
箱根ヶ崎駅から南に徒歩3分くらいの所に「加藤神社」があります。ここは加藤丹後守信景(のぶかげ)が戦死した場所と伝えられています。後年村民に信仰の念が深まり、加藤八幡宮として神社となったようです。境内に「加藤塚」があります。この場所は、もしかしたら結構大規模な最後の合戦が行われた場所かもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/picarin2005/e/ad5e02225156679b7148a42a3ca2e2c9
【加藤塚】
加藤信景は武田領の最東端である上野原(山梨県上野原市)に居を構える小豪族でした。武田氏滅亡により、死に場所を求め後世に残る最後を飾るため、信景主従は数で圧倒的に不利であるにも関わらず、北条勢に戦いを挑んでいきました。加藤塚の説明板に次の説明があります。
《武田氏の滅亡後、その家臣であった加藤丹後守景忠は妻子および数名の家来をつれて当地まで逃れて来た。北条氏の配下で当地を守っていた村上土佐守のひきいる兵と戦い討死した。天正10年(1582)4月11日のことである。村民はその死をあわれみ、直径11m、高さ1.5mの塚を築き葬った。2基の五輪塔はその当時のものと思われる。寛政年間(1790年代)に至り、加藤氏の後裔といわれる上野原の加藤最次郎が石塔を建て、円福寺に現存する馬上丹後守像等を納めたのをきっかけに、村民の間にも信仰の念が深まり、加藤八幡宮が建立された。境内の塚の上に周囲約8mの大欅があったのをはじめ、杉・桜・くぬぎ等の大木が茂っていたが、戦後航空障害・国道の開通のため伐採されて昔の姿を偲ぶことができない。》
2基の五輪塔は景忠と妻のもののようです。ここでの戦により加藤家本家は断絶します。景忠の姉は尼となり加藤家の領地上野原にてお堂(悉聖寺)を建て加藤一族の菩提を供養しながら余生を過ごしました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ue_kato.html

○「みずほエコパーク」(箱根ヶ崎1736)
町民の健康を増進し、リサイクルと環境学習を推進することを目的として設置され、生態や環境を学ぶことを意味するエコロジーとのかかわりが深いことから、名称が「みずほエコパーク」となりました。南端に瑞穂町のごみ処理施設「みずほリサイクルプラザ」があります。
http://www.town.mizuho.tokyo.jp/shisetsu/eco/eco.html

○「松原稲荷神社」(箱根ヶ崎472)
みずほエコパークの北に「松原稲荷神社」があります。松原地区の人々によって祀られた祠で、鎌倉武士・畠山重忠に関する伝説があるというが詳細は不明です。
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/57c9a3f43e1658a824efa6a2963ee3cb

○「松原中央公園」(箱根ヶ崎西松原42)
松原稲荷神社かに西に向かうと「松原中央公園」があります。ウオーキングコースでは、春になると花見ウオーキングを楽しめます。

○「シクラメンスポーツ公園(旧交通公園)」(箱根ヶ崎1155)
岩蔵街道沿いに「シクラメンスポーツ公園」(旧交通公園)があります。
http://www.town.mizuho.tokyo.jp/osirase/24.7/open.htm
【シクラメン街道(岩蔵街道)】
岩蔵街道は、沿道に多くの温室がありシクラメンの生産農家が多いことから「シクラメン街道」といわれます。瑞穂町のあちこちで、生産直売にこだわった農家の方が丹精込めてシクラメンを作っています。毎年冬には数千、数万鉢の色とりどりの花が咲き誇っています。瑞穂町のシクラメンは都内最大の生産量です。
http://www.town.mizuho.tokyo.jp/midokoro/sikuramen/sikuramen.htm

○「愛宕神社」(長岡長谷部374)
シクラメン街道(岩蔵街道)を西に向かうと「愛宕神社」があります。享保10年(1725)長岡長谷部の鎮守として、名主の長谷部勘次郎が親村、現入間市扇町の愛宕神社のご分霊を遷しました。勘次郎は更に檀那寺を引寺しようと、当社の北側を予定地とし、飯能の能仁寺に末寺の建立を要請しました。ところが能仁寺側は既に末寺として隣の師岡新田にある東善院の檀家となるように勧め、一旦はそのように収まりました。しかし何とか自村に寺院の建立を目指す勘次郎は、なおも能仁寺側に引寺を要請したが断られ続け、やむなく檀家契約を解消し、相模国大嶋村の清岩寺に末寺建立を要請しました。このため契約破棄を不満とした能仁寺・東善院側と訴訟沙汰となり、江戸の評定所の裁定の結果敗訴となってしまいました。憤った勘次郎は評定所役人にくってかかり、かえって手鎖の刑にされてしまったといいます。勘次郎の無念はいかばかりの事であったことでしょう。
http://namdak.blogspot.jp/2013/03/blog-post_4.html
http://oldvin.seesaa.net/article/253125118.html

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