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2013年08月12日01:01

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通貨単位がRATになった

デヴィッド・クローネンバーグの「コズモポリス」(12)。

冒頭の字幕は「通貨単位がRATになった」

セリフはほぼ、ドン・デリーロの原作のとおりだという。
ヨーロッパの大物プロデューサー、パヴロ・ブランコのオファーを受けたクローネンバーグは、脚本を7日で書きあげたという。

できあがった映画は、ほぼ会話劇といっていい。
画面上では二人の登場人物が語り合う。
そのうちの一人は必ず主人公のロバート・パティンソン。

パティンソンは、最初の登場こそ、サングラスをしているが、その後は半分眠たそうな瞳であいまいな笑みを浮かべた顔に終始している。
何が起こっても表情はほとんどかわらない。

こうした顔は、以前もクローネンバーグの映画で観ている。
「クラッシュ」(96)のジェームズ・スペイダー。


ほぼ大半の場面が、リムジンの車内。
2012年のカンヌ映画祭では、カラックスの「ホーリー・モーターズ」と同じようにリムジンが主要舞台となる映画がコンペ出品されていたのだが、カラックスの映画のリムジンとは全く異なっている。


疾走感もなければ、移動の感覚すらないリムジン。
重さを感じられない軽さ。
肘置きの横にはディスプレイが配置されているが、その青い画面に何が写っているのか、ほとんど写し出されることはない。

存在の軽さといえば、黒沢清の車もふわふわしている。
「リアル」では疾走感はあったが、存在は軽く、浮いているようだった。


クローネンバーグの映画は、もともヘンな人がヘンな世界と遭遇して、ますますヘンになっていくという構造を持つ。
そうした崩壊の具合をかつては、特殊メイクのようなギミックで表現していたが、この映画は全くシンプルに描いている。

テレビ画面で描き出されるのは、テレビスタジオでの殺人。
それはまるで、「ビデオドローム」(82)のようでもある。

遠くで行われていること。
道端で人が火だるまになっている姿を見るのも、全く同じ距離感である。

もう一つテレビ画面で写し出されていたのは、主人公が好きだった黒人ラップ歌手の葬儀の隊列。

リムジンで話をする人は、最初こそ男性だったが、あとは女性ばかり。
唯一同一フレームに収まって話をするのは、健康診断で前立腺を医師に触られているパティンソンを間近に見て、水のペットボトルを握りしめるエミリー・ハンプシャー演じるランニングの格好をしたシングルマザーの女性のみだ。

サマンサ・モートンなど、パティンソンが座る位置に座って、時間の概念が「ナノセコンド」に細分化されてきているなどと、哲学的な話を述べる。
彼女は「マイノリティ・レポート」(02)で予知能力を持つプレコグを演じていた人である。
彼女がパティンソンにとって重要な存在であることはよくわかる。

これまでのクローネンバーグの映画であれば、彼女が新たなヘンな世界の導師だっただろう。


リムジンの外の世界への移動は、実にあっさりと行われる。
サラ・ガドンを見かけた時。

「危険なメソッド」に引き続き、この映画でもセレブの女性だが、この映画でのサラ・ガドンはキツキツの女で、美しくて実にいい。
二人は三食を共にすることになるが、
まわりにけっこう人がいても、二人の声しか聴こえない。
雑音のなさぶりが、斬新である。

サラ・ガドン、すごくいい。


結局、リムジンの中のパティンソンにとっては、自分がどう思うか、しかない。
外の世界も電脳世界も、テレビも。
食べるし、セックスも一度ではなくするし、リムジンでおしっこもする。
でも、生きている実感は何もない。

そういう世界。
クローネンバーグは実は細部に凝っているが、シンプルな切り返しカットのみで構成して何か達観したかのような、極みにあるように思う。


次もパティンソンが主演で、サラ・ガドンも出演。
女優陣には、ジュリアン・ムーア、キャリー・フィッシャー!
そして、ミア・ワシコウスカ!!

タイトルは「Maps to the Stars」
Complex look at Hollywood and what it reveals about Western culture

ハリウッドを舞台に映画を撮るようである。
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