毎月1回、一泊二日で木曽川河口から源流へ歩いている。
今回はその4回目。
濃尾平野と木曽谷の間にある、寂しい山の中を歩いた。
4月20日(土)
多治見駅から太多線に乗り換える。
美濃川合駅で降りたのが午前7時54分。
川沿いの住宅街を歩き出す。
建物の向こうに木曽川が見える。
工場やパチンコ屋もある街の中だ。
すぐに飛騨川との出合に来た。
乗鞍岳を源流とする、木曽川最大の支流だ。
1キロほど飛騨川を遡り、橋を渡る。
少し下流に岩の小島が見える。
小山観音といって、小島の中にお寺があった。
橋をわたってお参りする。
小山観音からは2つの川の大きな合流点が見える。
ふたたび木曽川に戻る。
このあたりの河畔は切り立った岸壁になっている。
川のどちら側を歩いても、河畔から離れた道路をとぼとぼと歩くことになる。
われわれは左岸のほうを行くことにした。
道路が川に近いし観光名所もあるから。
畑の中を歩いて行き、河合橋を渡る。
住宅街の中や、交通量の多い県道を歩いて行く。
たまに見える木曽川が美しい。
一時間ほどで兼山町に着いた。
この街のウリは「森蘭丸」。
織田信長の小姓をしていて、本能寺の変で死んだ人だ。
兼山町の大名、森氏の人だったそうだ。
森蘭丸の時代からある渡しの跡も保存されていた。
兼山町歴史民族資料館に入ってみた。
この建物自体が古い小学校の校舎を改造したもの。
三階建ての大きな木造建てだ。
ダムができる前は、この辺りがすごく繁栄していたことが分かる。
資料館の中には森蘭丸やその一族の資料など。
それから兼山町の歴史を解説していた。
わたしが一番気に入ったのは駅にあった表示板。
2001年に廃止された名鉄八百津線のものだ。
このあたりは名鉄の廃線で、ますます寂れてしまった。
手前の各務ヶ原市、山向こうの恵那市と比べると時代から取り残されたようだ。
明治時代までは木曽川の水運で賑わっていた街。
上流と下流にダムができた。
道路や橋ができて交通体系が変わった。
森蘭丸の生誕地ということだけで、なんの産業も観光もない場所になってしまった。
さらに県道を歩いて行く。
兼山ダムを過ぎて橋を渡る。
八百津の街が見えてきた。
午後1時30分、八百津町に到着。
今夜宿泊の「まつや旅館」にチェックインする。
部屋は清潔で、環境も静か。
女将さんも愛想の良い人だった。
町の名所などを教えてもらう。
まだ昼下がりだ。
わたしは八百津町で、どうしても行きたいところがあった。
杉原千畝記念館だ。
杉原千畝は八百津町の出身だ。
町の最大のウリらしく、そこらじゅうで「杉原千畝の生まれた八百津」と宣伝している。
杉原千畝は「日本のシンドラー」と呼ばれている。
外交官で、太平洋戦争中にリトアニアの領事をしていた。
ある日、何千人ものユダヤ人が領事館に押しかけてきた。
日本に行くビザを発給してくれと。
ユダヤ人たちは、リトアニアを脱出しなければナチスに捕まって殺される。
杉原は本国に問い合わせた。
ビザなんか出しちゃダメと言われる。
だけどそれを無視して、千枚以上のビザを発給した。
ビザは一家族に一枚だったから六千人以上のユダヤ人の命を救った。
そのことが原因で戦後になって外務省をクビになる。
晩年になりイスラエルから「諸国民の中の正義の人」として顕彰される。
東日本大震災のとき、アメリカユダヤ人協会は多額の義援金を集めた。
「いまこそ杉原千畝の恩義に報いるときだ。杉原の国を救え!」
じつに偉大な人だ。
兼山町の森蘭丸や、美濃加茂市の口裂け女とは訳が違う。
まつや旅館からタクシーに乗って「人道の丘公園」に着いた。
公園の中に記念館がある。
建物の中は撮影禁止。
リトアニアの領事館の部屋が再現されていた。
「決断の部屋」という。
自分だったら仕事をクビになってまで人命を救おうと決断するだろうか。
「命のビザ」もあった。
杉原のサインのほかに、査証・敦賀上陸と書いてある。
もしも杉原千畝がこれを書かなかったら、この人は強制収容所で殺されていたのだ。
杉原千畝の生涯を紹介するコーナーもあった。
八百津で生まれた杉原だが、学生時代は名古屋で過ごした。
愛知五中という学校で、江戸川乱歩と同窓だ。
名古屋は偉大な人物を二人も育てた素晴らしいところだと実感する。
帰りはブラブラと歩いて旅館へ戻る。
スーパーの西友で買い出し。
近所の大衆食堂でとんかつ定食を食べる。
旅館に戻って部屋で宴会。
明日は廃国道を延々と30キロ歩くのだ。
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