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2010年01月20日23:28

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鳥羽城跡

 昨日は近鉄新春フリーパスを用いて三重県鳥羽市まで足を伸ばして来ました。
 鳥羽の歴史は以下の通りです。

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 志摩国志摩郡の鳥羽(トバ)は、古代には泊浦(トマリノウラ)と呼ばれ、天然の良港として知られていたため、泊浦御厨(ミクリヤ)として伊勢神宮の支配下に置かれた。また鴨部駅家も設置され、水陸交通の要地であった。
 保元年間(1156〜59)に橘氏が鳥羽殿と称して、桶の山と呼ばれた陸繋島に居館を設けて、泊浦御厨や法楽寺領荘園を支配下に置き、鎌倉時代もその状態が続いた。また、この頃、町の中心部を流れる妙慶川以北が伊勢国に編入され、泊浦が転訛した鳥羽の地名も用いられるようになった。
 室町幕府は志摩守護を伊勢守護に兼任させ、貞和4(1348)年、両国守護仁木義長は鳥羽に伊勢志摩両国守護所を設置した。
 だが、明徳3(1392)年の南北朝一統後、南伊勢支配が南朝系の国司北畠氏に委ねられた事もあって、志摩国には守護権力が殆ど及ばないようになり、志摩十三地頭と称される海賊衆が各地区を治めており、鳥羽の領主橘氏が盟主となっていた。
 永正年間(1504〜21)に至り、橘宗忠は桶の山の居館を本格的城砦に改造し、鳥羽城と呼ぶようになったが、その直後に伊勢国司の権大納言北畠材親(キチカ)に敗れて服属を余儀なくされ、志摩国は北畠氏の支配に入った。この時、宗忠は妙慶川の北岸(つまり伊勢国側)に聳える標高50mの取手山に高城城(取手山砦)を築いて移り、鳥羽城は一旦廃城となった。
 一方、16世紀後半になると紀伊国九鬼浦(現尾鷲市)から英虞(アゴ)郡波切(ナキリ)に移住して十三地頭の一人となった九鬼隆良から6代目に当たる九鬼浄隆が勢力を伸ばし、永禄3(1560)年に伊勢国司・権中納言の北畠具教(トモノリ)に反旗を翻すが、他の12地頭の総攻撃を受け、戦の最中に急死したため、九鬼氏の勢力は一旦壊滅した。
 浄隆の弟九鬼嘉隆は尾張へ逃れて織田信長に仕え、永禄12(1569)年以後、水軍を率いて北畠具教や橘宗忠等の志摩12地頭を連破し、その功績で志摩国28000石の領有を認められた。降伏した橘宗忠も娘を嘉隆に差し出して鳥羽の伊勢国側6000石を安堵された。
 その後も嘉隆は水軍を率いて活躍し、特に天正6(1578)年の第二次木津川口の戦では、6隻の鉄甲船を率いて600隻の毛利水軍を撃滅する大功を立て、摂津国野田・福島等7000石を加増されて、合計3万5000石を領する事となった。
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 嘉隆は豊臣秀吉からも本領を安堵され、文禄の役(1592〜93)では李舜臣麾下の朝鮮水軍相手に奮戦し、文禄3(1594)年に帰国した際、摂津国野田・福島7000石を橘宗忠の伊勢国鳥羽6000石と交換し、波切から旧鳥羽城に本拠を移して近世城郭に改造した。
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 なお、橘宗忠は、その後、鳥羽に戻って福禅寺に隠棲、慶長10(1605)年に没したが、男子が無かったため橘氏は断絶した。
 一方、九鬼嘉隆は慶長2(1597)に家督を子の守隆(母は橘宗忠の娘)に譲って隠居したが、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦に際しては、徳川家康の会津討伐に従軍していた守隆が東軍に組したのに対し、自らは西軍に属して鳥羽城を奪取したが、西軍敗北の後、自決した。
 他方、守隆は20000石を加増され、慶長20(1615)年の大坂夏の陣でも功を挙げて1000石を加増され、55000石を領することになったが、寛永9(1632)年に守隆が死去すると、その三男隆季と五男久隆の間で家督争いが起こり、幕府の裁定の結果、家督は久隆が継いで摂津国三田35000石へ移封され、隆季も丹後国綾部20000石を与えられた。こうして九鬼氏は分裂した上、水軍力を失った。
 翌年、内藤忠重が35000石で鳥羽城に入り、本格的近世城郭に大改造したが、三代目の忠勝は、延宝8(1680)、芝増上寺における第4代将軍徳川家綱の法会の席上で、私情から丹後宮津藩主永井尚長(ナオナガ)を殺害した為に切腹・改易となってしまった。
 翌天和元(1681)年、下総国古河藩から土井利益が70000万石で入府するが、元禄4(1691)年に肥前国唐津へ移封され、入れ替わりで松平乗邑(ノリサト)が60000万石で入るが、これも宝永7(1710)年に伊勢亀山へ移封。入れ替わりで板倉重治が50000万石で入るが、これも享保2(1717)年、再び亀山へ。代わって山城国淀藩から松平光慈(ミツチカ)が70000万石で入るが、これも享保10(1725)年に信濃国松本へというように、藩主家が安定しなかったが、代わって譜代の稲垣昭賢が下野国烏山藩から30000万石で入り、ようやく藩主家が定着した。
 江戸時代の鳥羽は、藩士が全て外堀の内側に居住したため、藩士と町人・漁民との交流は少なく、城下町としての発展は不充分であったが、港町としては殷賑を極めた。上方と江戸を結ぶ菱垣廻船や樽廻船が遠州灘を往来する際は必ず鳥羽港に寄港する事となり、港には廻船問屋や30余軒の船宿が立ち並び、大いに賑わった。文政年間に発行されたとされる『国々港くらべ』では西の港番付で堺港に次ぐ第2位(関脇)として鳥羽港を評価している。
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 幕末の稲垣家第7代藩主の長行は佐幕派で、慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦の際には江戸にいたが、鳥羽藩兵は徳川軍に属して新政府軍と交戦した。戦後、長行は急遽鳥羽に戻り、伊勢亀山藩主石川成之を通じて新政府に謝罪、15000両の軍費を供出することで罪を許されたが、その直後の明治元年9月29日に19歳で死去し、弟の長敬が養子となって第8代藩主となった。長敬は新政府への恭順を更に示すため鳥羽城を破却している。
 明治4(1871)年の廃藩置県で鳥羽藩は鳥羽県となり、さらに度会県を経て三重県に編入され志摩郡鳥羽町となった。
 明治23(1890)年、鳥羽出身の御木本幸吉(ミキモトコウキキ)が相島(オジマ)で真珠養殖実験を開始し、明治29(1896)年、養殖に成功、鳥羽は養殖真珠の町としても知られるようになり、相島は昭和26(1951)年にミキモト真珠島と名付けられた観光施設となった。
 昭和29(1954)年に周辺町村と合併して市制が施行された。
 翌昭和30(1955)年には鳥羽水族館がオープンし、全国最多入館者数を誇る事となるなど、戦後は観光都市として発展した。

*鳥羽城跡
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 難波から近鉄特急に乗り、鳥羽駅で降りると、すぐ西方に標高69mの日和山(ヒヨリヤマ)が聳えています。鳥羽湾を一望に出来る絶景の地であるため昭和8(1933)年に鳥羽駅から山頂までエレヴェーターが付けられたんですが、昭和52(1977)年に火災で消失してしまい、歩いて登るしかなくなりました。
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 一昨日は快晴で眺望が素晴らしかったです。
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 江戸時代には、船頭が翌日の天気を見るために必ずここに登ったとされ、方位を示す方位石〔鳥羽市指定有形民俗文化財〕が設けられています。現在のものは文政5(1822)年に作られた2代目ですが、初代のものは江戸時代初頭に作られていたと推定されており、日本最初の方位石だったと考えられています。
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 松尾芭蕉の句碑もありました。「鷹一つ 見つけてうれし 伊良子崎」
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 また、この地は第一次世界大戦中の大正3(1914)年12月、船舶連絡用に世界初の無線電話実用実験が行われた場所でもあり、記念碑が建っています。
 
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 日和山の隣の海抜約50mの峰が橘宗忠の高城城(取手山砦)跡です。土塁の外、石積もありましたが、後世のものかもしれません。
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 日和山を北側へ降りると、天照大神(アマテラスオオミカミ)の8人の子を祭った賀多神社〔郷社〕があります。神亀2(724)年建立と伝えられる古社です。
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 ここの能舞台の神事能は三重県指定民俗文化財になっています。
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 続いて、九鬼氏・稲垣氏菩提寺の曹洞宗玉龍山常安寺に向かいました。
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 ここは明治10(1877)年1月25日、大和行幸に向かう明治天皇の御召艦が暴風雨を避けて鳥羽に入港した際、臨時の行在所になった所で、お供は、三条実美太政大臣・木戸孝允参議・伊藤博文参議・山縣有朋陸軍卿といった錚々たるメンバーでした。当時は西南戦争勃発直前の緊迫した状況下でしたから、もし、御召艦が沈没したりしていたら、日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。
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 こちらが稲垣氏霊廟です。九鬼氏のものだと思って撮影したんですが、九鬼氏のものは別の場所だったみたいです。あせあせ(飛び散る汗)
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 こちらは真珠王御木本幸吉の誕生地です。
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 こちらが、伊勢・志摩国境の妙慶川です。鳥羽城外堀として用いられました。
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 こちらが、鳥羽藩家老日向主水(ヒュウガモンド)の屋敷跡です。
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 こちらが鳥羽城本丸石垣です。
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 こちらは曹洞宗天英山光岳寺です。ここも藩主稲垣家菩提寺の一つなんですが、いくら探しても殿様のお墓は見つかりませんでした。
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 こちらは城主橘氏・藩主内藤家菩提寺の浄土宗春曜山実相院西念寺です。ここでも殿様のお墓はいくら探しても見つかりませんでした。
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 《続く》
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