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2022年09月08日13:46

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空海と密教とマンダラの世界。

ソクラテスが覚醒していたのなら、
彼の問答を論としておさえるのは
間違っている。

ソコを知らなければ、
ソコ以下の内側に
様々な論が形成される。

それは、知的な洞察からの
論述体系となる。
 
実質的に抑えなければならないのは、
実際の覚醒と、遍在性について、
そしてそれがもたらす
特殊な優しさだと思う


知的な洞察をする点としての人間が、
点と線をたどって、
いくら予測・吟味しようが、

それはそれを予測する人間の結論と
今を繋ぐ線にしかなり得ないことも
あるのかもしれない。


少なくとも、ソクラテスは辿れない。

「知的な洞察をする点としての人間」が、

遍在を通過する時、

「遍在かつ点としての顔」が顔を出す


ソクラテスの対話を、
遍在を通過した
「遍在する顔を持つソレ」と、
「個人という視点を持つ顔」と見るとき、
 
個人は、
遍在を教える媒介になる。

まず、遍在であること
を主とする空海の密教は、

遍在を遍在する実在として
臨在を使う応用にも思える。


なので、
「遍在を理解するために役立つもの」と、
「遍在を応用したもの」は違うと思う。
 
空海が最初に密教を理解できなかったのは、
遍在性に関する諸理解じゃなくって、
 
理解を持ってしても
理解できなかったナニカ
に関する驚きであったのではなかろうか。


「個人の座」として始まる
覚醒についての一大体系に精通していた
と思われる空海が

驚き、理解出来なかったことを

今日の人が知的な区分だけで
理解できるのだろうか。

まず、遍在を通り、基礎が出来、
曼荼羅を貫通した
空海的理解が、
そこの場所を暗示させるようにも思う。


遍在により、直接に感得する事と、
それを論理体系に乗せて理解する
のには違いがある。

前者は、
遍在をまとい、
後者は個人をまとう。

遍在によりまとわれた智を、
直接、遍在により感得し続けた空海による
密教理解は、

それを理解する事ではなく、
世の中を明るくする事
であったのかもしれない。


曼荼羅に貫通して、直に大曼荼羅に入り、
作法を行う事は、

実際に曼荼羅色が世界に彩りを増す
かの事だったのだと思う。

ここにおいて、
空海の密教的理解が、
秘密の蔵(密蔵)の開示に至った理由が、
どんな意図によるもの
だったかを考察したい。

それは、
「遍在を通過した自己」による、
「再吟味」だと思われる


「遍在を通過した遍在」が、
「わかって個人を再びあえて身にまとう時」に、
何が最良として出来るのか?

という強い問いに対して答え
の発露として現れたのが
「空海の密教との出会い」
ではないだろうか?

それは、
よく「動的自然を観察した結果のもの」
が「悠久の時を経たもの」と
して目に映ったのかもしれない。



遍在を目指した個人
が得る世界観ではなく、

色味を帯びた極彩色
(遍在臨在として現れてる確かな空[くう])
は、

表れている色味と、
表れざる(と自己からは見える)空の世界を、
両方、踏襲している。

それは、ランダムな世界に
色味を与えるナニカだと思う。

ここで、
個は、色づけを行う絵描きとなる


色づけられた色づけは、
個をその人の真芯に持っていく何かを、
色づけと共に蘇らせる。

真芯は、その人の
直球ストレートを放てる

ここで、西洋のルネサンス、
そして西洋の神秘主義のカバラと繋がる。

それは、結論として、
文化を力づける彩りを持つ。

覚醒のルネサンス的所業が、
空海的な密教だと思われる


カバラが理想として掲げた事を、
実際に別の分野と経で
超越させて行ったのが
空海的所業なのかもしれない。
 
 

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