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2022年05月18日00:28

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『トーマス・ヒル・グリーン研究』 その27 (再投稿)

T・H・グリーンの批判的考察 その8 第三に、「共同善」という概念について。
すでにD・G・リッチーの指摘したところとして言及したように、自我実現を共同善と同一視することによって、グリーンは倫理と政治の密接な関連性を説こうとしましたが、その限りにおいて、自我実現に対する我々の疑問は、そのまま共同善についても当てはまります。
 しかし、それとは別に、H・A・プリチャードも述べているように、グリーンによれば善とは欲求を満足させるものでありますから、異なった人間が異なった人間である限り、一つの共通な善はありえないのではないでしょうか。むしろB・ラッセルが主張しているように、欲求は異なった人々においてはもとより同一の人間においても葛藤するものである以上、「両立不能」よりも「共存可能」な欲求のほうが望ましい、というべきでしょう。そして、共存可能な欲求を満足させることを「一般的な善」と呼ぶほうが事態の真相を的確に表現していることになるのではないでしょうか。
 さらに今一つ別の、というよりもむしろ反対の視点からの、疑問があります。それは、マイケル・フリーデン--イギリスにおける自由主義思想を変質させて新自由主義的国家論を公式化することに最も力があったのは、俗説的見解のようにグリーンではなく、D・G・リッチーであった、という挑戦的な解釈を提示していますが--の主張であります。すなわち、彼によれば、グリーンは共同善という概念で、「共通ではあるが私的な目的に対する協力」と「一つの共同の善の追求」とを区別しませんでした。新自由主義が新しい社会概念を引き出したのは、実はほかならぬ「一つの共同の善」としての超個人的な概念からですが、グリーンは真のパーソナリティを個人にのみ限定して国民性、人間性あるいはその他の抽象物には否定しましたから、「一つの共同の善」としての共同善を認めていないことになる、というのです。興味のある鋭い指摘ですが、その当否はともかくとして、このように共同善という概念は、まったく正反対の方向で把握されるほど一義的には理解されにくい不分明な概念であるといわざるをえないのであります。

この続きは別項で。
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