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2021年12月25日18:55

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12/25(土)ソ連崩壊30年目の日、ナゴルノ・カラバフ紛争停戦合意1年、アルメニアとアゼルバイジャンの歴史(後編) 

12/25(土)
今回のテーマは、かつてソヴィエト連邦に加盟していたアゼルバイジャンとアルメニアが争う「ナゴルノ・カラバフ自治州」問題の後編である。ソヴィエト連邦崩壊30年の日に合わせて、公開にいたった。アゼルバイジャンの歴史や政治体制、ソ連の崩壊と共に、紛争問題を考察した。

前編 11月10日付 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980818604&owner_id=32437106

 目次
・第5章 アゼルバイジャンの歴史
・第6章 ナゴルノ・カラバフ紛争へ
・第7章 西暦2020年に起こった2度目の大規模紛争


第5章 アゼルバイジャンの歴史 
 アルメニアと国境を接するアゼルバイジャンは、人口1000万人にのぼる。カスピ海に面する首都バクーの人口は221万人(2020年時点)、大規模な油田を抱え、第2のドバイとして発展を続ける。政治の方では、独裁体制を築く。2003年10月31日に就任した第4代大統領イルハム・アリエフ氏は、18年以上同職に収まっている。同国は複数政党制とはいえ、実質イルハム・アリエフが率いる「新アゼルバイジャン党」によるヘゲモニー政党制である。他の党は、新アゼルバイジャン党に逆らえず、議会に提出された法案に対して、反対意見さえ封じられていた。2017年時に、大統領のアリエフは、前年の国民投票の結果を受けて、副大統領を創設し、自身の妻を任命した。大統領が病気などで職務を一時的に離れた際、これまでは首相に権限が移行されていた。新たに副大統領が、代わりを務める。大統領の任期も5年から7年に延長された。1991年10月18日に独立して以降、アリエフ一族が支配を強化する。彼の父ヘイダム・アリエフは、第3代目として1993年10月から10年にわたって、国のトップを担った。親子2代で28年にわたって、国のトップに立つ。過去の歴史を振り返ると、紀元前にアケメネス朝ペルシャ帝国の支配下にはいり、アレクサンドロス大王の東方遠征により、帝国の一部へと併合された。7世紀にイスラム教が伝わり、すっかり定着している。西暦1258年にモンゴル帝国を築いたチンギス・ハンの孫フレグ・ハンが建国したイルハン国に取り込まれた。15世紀後半には、サファビー朝(現イラン北西部のアルダビールに起源を発する)の勢力拡大に伴い、アゼルバイジャン一帯は支配下に入った。

写真=サファビー朝の勢力地図 掲載元 なまぐさ坊主の聖地巡礼より
http://kintaku3.blog.fc2.com/blog-entry-344.html
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サファビー朝は、現在のアゼルバイジャン領内でアラス川を境界として2管区(カラバグ、シルバン)に分割して統治した。サファビー朝下で養蚕が奨励された。17世紀には世界有数の生産量を誇る。17世紀末には、台頭したカッジャール朝によって統治された。カッジャール朝は、1796年にアフシャール朝に代わるトルコ人勢力で、テヘランに首都を築いた。建国者アーガー=ムハンマドは、1795年にアルメニア、ジョージア、アゼルバイジャンに侵攻している。1925年に滅亡するまでカッジャール朝は、抑圧的な国家だった。アゼルバイジャンは、19世紀に南部への領土獲得を狙ったロシアの介入を受けるようになる。発端は1804年から1813年に渡った第1次ロシアーイラン戦争である。ゴレスターン条約により、アゼルバイジャン北部は、ロシア帝国に移譲した。1826年から28年までの3年に及んだ第2次戦争では、トルコマンチャーイ条約を結んで、最終的に領土問題が解決した。ロシアはカッジャール朝からアルメニアを獲得したのである。程なく現在のアゼルバイジャンの首都バクーで油田が発掘され、貴重な天然資源国としてロシアから重宝される。ロシアの介入により、国の形が変わった。
1917年にロシア革命により、一端独立を果たしたものの、すぐに社会主義勢力に飲み込まれる。革命は2度にわたった。1917年の2月革命により、304年続いたロマノフ王朝が倒れた。帝国内の各都市では地方勢力が台頭する。2度目の10月革命では、貴族階級が支配する臨時政府が、ボリシェビキ(後のソヴィエト共産党)を支援する労働者らによって追放され、帝国に支配された国々が独立を果たす。アゼルバイジャンは1917年11月15日に、ボリシェビキにより、左翼エス・エル党と連立したバクー・コミューンが創設された。指導者は、ジョージア産まれのアルメニア人のステパン・シャウミャンである。1914年からバクーの党組織を指導していた。アゼルバイジャンを拠点にしながら、メンバーの7割はアルメニア人だった。対してミュサヴァト党,グルジア・メンシェビキ,アルメニアのダシュナク党等の民族主義諸派は,17年11月ティフリスでザカフカス委員部を結成していた。

 写真=ステパン・シャウミャン 撮影時39歳(1917年)
ウィキペディアより 
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翌1918年6月には、石油産業が国有化され、大地主に仕えていた農民には、均等に土地が分配された。1日8時間労働制も確立される。当時は第1次世界大戦末期、ロシアの方では、1918年3月3日ドイツ帝国との間でブレスト=リトフスク(現在ベラルーシ最西端の都市)条約を結び、第1次世界大戦から離脱していた。アゼルバイジャンは、ドイツ帝国と同盟を結んでいたオスマン帝国に占領されていた。シャウミャンがリーダーを務めるバクー・コミューンは、赤軍を率いて、オスマン帝国と首都バクーでの戦いで勝利する。余勢を勝って、エリサヴェトリ(現在アゼルバイジャン第2の都市ギャンザ)まで侵攻した。追撃体制を整えたオスマン軍の前に敗北を喫する。バクーで建て直しを図り、ツァリーツィン(現在のロシア連邦西南部ヴォルゴグラード)からグリゴリー・ペトロフ率いる騎兵中隊が応援に駆けつけた。メンシェヴィキ(ロシアのボリシェビキから分かれた組織)、社会革命党右派、アルメニア人のダシュナク党もバクーに入り、対オスマン戦線を張った。バクーにペルシャ戦線のイギリス軍指揮官であるライオネル・ダンスターヴィル将軍を招き、都市防衛機能を強化する。アゼルバイジャンのボリシェヴィキ、社会革命党左派とダシュナク党の一部は、反対したものの、選挙の結果にゆだねられる。7月25日の議決では賛成259票、反対236票となり、イギリス軍を招きいれた。意義を唱えたアゼルバイジャンのボリシェビキは、コミューン(組織)を辞して、一戦から退く。革命運動家として、他の政党から警戒される。アゼルバイジャンのボリシェビキは、公金の支出に関して報告書の提出を怠ったことにより、横領の嫌疑をかけられた。軍用品を横流しした罪で起訴され、メンシェヴィキと社会革命党右派が中心となったカスピ海艦隊中央委員会独裁政権に捕縛される。同1918年9月20日、リーダー格のシャウミャンを含め、26人のバクー・コミサールのメンバーは、イギリス軍立会いの下に、処刑された。シャウミャンは、革命を起こしたレーニンの考えを受け継いでいるものの、戦争を嫌い、常に対話重視の姿勢をとっていた。後世の歴史家は、シャウミャンと暴力革命を結びつけていない。アゼルバイジャンの社会主義勢力は、帝国主義のイギリス、右派政党によって抹殺されたのである。

他方、アゼルバイジャン国内では、ロシアの10月革命に伴い、ジョージア、アルメニア、と共に3カ国からなる「ザカフカース特別委員会」が設置される。民族や宗教が異なる3国では共に歩みよれず、分裂する。1918年5月に、アゼルバイジャンは第2の都市ギャンザにて、民主共和国としてスタートを切る。ロシア帝国統治下の1911年に秘密組織として創設されたミュサヴァト党が中心となって立ち上がった。9月に首都バクーを征服した。イスラム系の政党であるものの、信仰の自由を認め、より民衆に歩み寄った。ザフカース特別委員会で共にしたダシュナク党が中心のアルメニア第一共和国との間では、ナゴルノ・カラバフを巡り、戦争をする。1920年にはロシアから赤軍が到来し、紛争はお収まった。ボリシェビキ主導の下、1922年にジョージアとアゼルバイジャン、アルメニアの3国からなる「ザカフカース社会主義ソヴィエト連邦共和国」を構成した。1936年に、社会主義ソヴィエト連邦内で、再度ジョージア、アゼルバイジャン、アルメニアの3国に分離した。

     第6章 ナゴルノ・カラバフ紛争へ
 
旧ソ連時代、アルメニアとアゼルバイジャンの間で、目だった争いは起こらなかった。転機は1985年に就任したソ連時代最後となる第7代の指導者ゴルバチョフの政策にある。ゴルバチョフのペレストロイカと呼ばれる改革により、グラスノスチ(情報公開)や 歴史の見直しを始めた。低迷した経済を立て直すべく一石を打ち、共産党のイデオロギーに反して、事業の民間参入を許可した。社会主義の枠内でソヴィエト連邦を構成するそれぞれの共和国に、一定程度経済の自由化を認める政策だ。それぞれの共和国間での民族意識が高まった末、新たな問題が起こった。最初に顕在化したのは、1988年に勃発したナゴルノ・カラバフ自治州である。同地域は、第一次大戦まで帝政ロシアの支配下に置かれていた。

 写真=ナゴルノ・カラバフの位置関係を示した図 掲載元 2020年9月30日付 live door NEWS ナゴルノ・カラバフ紛争再燃 https://news.livedoor.com/article/detail/18977084/
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 1917年のロシア革命を経て、1918年5月、アルメニアとアゼルバイジャンが相次いで独立を宣言した。ムスリム国家アゼルバイジャンの領域内で、キリスト教徒のアルメニア人が多数居住している“飛び地”のナゴルノ・カラバフは、孤立した状態だった。アゼルバイジャンとアルメニアの両国が領有権を主張したものの、解決はしなかった。1920年に赤軍の進駐により、2年前に独立した両国は、立場が危うくなった。翌1921年、ロシア革命政府は、地理的要因からナゴルノ・カラバフを“自治州”としてアゼルバイジャンに帰属させた。

 1922年末にアゼルバイジャンもアルメニアもソ連に併合され、カラバフ問題は一端落ち着いた。アゼルバイジャン共産党の中で、領土宣言を目的にナゴルノ・カラバフ支部が作られた。 

  以下の写真は、旧ソ連時代の1982年に発行された切手付き封筒である。ナゴルノ・カラバフの首府、ステパナケルトのアゼルバイジャン共産党ナゴルノ・カラバフ支部(当時)の庁舎が描かれている。

参考リンク 郵便学者内藤洋介のブログより http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-5635.html
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  ゴルバチョフの下でソ連のペレストロイカ改革が進むと、およそ76年ぶりに、ナゴルノ・カラバフの帰属問題が再熱した。アルメニア人は、カラバフ自治州の編入を政権側に請願した。第7代指導者であり、初代大統領のゴルバチョフは、カラバフ自治州のアルメニア編入を認めなかった。ゴルバチョフ就任3年後の1988年2月、今度は自治州政府側が、公式にアルメニアへの移管を要請した。アゼルバイジャン側も自国民が暮らすカラバフ自治州をアルメニアへの引渡しに断固反対の姿勢をとる。旧ソ連時代末期に、アルメニアとアゼルバイジャンの間で、にわかに緊張感が高まっていた。同1988年2月22日、ナゴルノ・カラバフのアスケランでアゼルバイジャン人青年が、アルメニア人によって殺害される事件が起こった。アゼルバイジャン人は、堰を切ったかのように武器を手にして、アルメニア人と戦った。6月15日に、アルメニア共和国最高会議がナゴルノ・カラバフ自治州の自国への移管を決議した。翌16日に、敵対するアゼルバイジャン共和国の最高会議が、アルメニア側の要求を全面否認する決議を採択した。両者平和的に解決できず、ソ連時代で最も大掛かりな内戦が勃発したのである。

 1991年8月19日、ソ連を構成する15の共和国が、次々と独立宣言する中、当時副大統領のゲンナジー・ヤンナーエフがクーデターを起こす。彼は、地方分権案が盛り込まれた新連邦条約の調印を翌日に控えたゴルバチョフ大統領を引き摺り下ろそうとしたのである。結果的に、クーデターは失敗し、逮捕・収監された。ソ連崩壊に繋がる、一連のクーデターを「8月19日の政変」ともいう。ロシア連邦の大統領エリツィンは、ソ連離脱を決意する。彼は、1989年3月26日に行われた第1回人民代議員大会選挙でモスクワ選挙区から出馬して、当選している。1990年7月13日にソヴィエト共産党を離党し、無所属として、大統領選挙に出馬した。1991年6月12日に投開票が行われたロシア連邦内の大統領選挙で、ソビエト共産党に所属するルイシコフを破ったことを受けて、ソ連解体は避けられない状況になっていた。8月30日にアゼルバイジャンが、9月21日にアルメニアが再独立を宣言した。1991年12月8日に、ロシアのエリツィン大統領、ウクライナのレオニード・クラーフチュク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケービッチ最高会議議長が、極秘で会談を開いた。ベラルーシのブレスト州ベロヴェーシの森の旧フルシチョフ別荘で開いた会議において、独立国家共同体(CIS)の設立に向けて詰め協議を行ったのである。会議を開いた場所にちなみ、「ベロヴェーシ合意」という。12月21日に、ソヴィエトを構成した15の共和国のうち、最大の人口と面積を持つ国家ロシア連邦共和国を筆頭に、11の共和国の代表者が、独立国家共同体を意味するCISの加入に向けてサインした。1941年に併合されたバルト三国は、加わっていない。ジョージアは、1993年12月にメンバー入りした。CISの加入承諾を「アルマ・アタ宣言」という。アルマ・アタとは、カザフスタンの旧都アルマトイの、ソ連時代の名称である。ロシアの離脱により、ソヴィエトは存続できなくなった。12月25日にゴルバチョフが、大統領の座を辞任し、クレムリン広場に掲げられた赤の国旗を引き摺り下ろした。代わりに白・青・赤の新たな3色旗が打ちあがった。ソヴィエト解体により、ロシア連邦として再スタートを切ったのである。

 写真=左側ゴルバチョフ 右エリツィン 掲載元 耳とチャッピの布団 2019年12月9日付 ソ連が去ってロシアに帰還(6)https://plaza.rakuten.co.jp/pogacsa/diary/201912090000/
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  最終第7章 西暦2020年に起こった2度目の大規模紛争

1991年12月25日にソヴィエト崩壊後、ナゴルノ・カラバフは、国際的にアゼルバイジャンの自治州と認定されている状況に変わりない。同地域を挟んで西側の飛び地ナヒチェバンを抱える。ナヒチェバンの人口98パーセントは、アゼルバイジャン人である。アゼルバイジャンは、本土とナヒチェバン自治区を繋ぐナゴルノ・カラバフを手放せない事情があった。対して、アルメニア側は自国民が多く暮らす同自治州の編入を主張する。ソ連崩壊後、ナゴルノ・カラバフ紛争は内戦から国際紛争と化した。翌1992年1月6日には“ナゴルノ・カラバフ共和国(アルツァフ共和国)”の独立が宣言された。アルツァフ共和国の由来は、紀元前230年から紀元前160年まで生存したアルメニア王国の創始者アルタクシアス1世に由来する。

 国連はナゴルノ・カラバフ共和国を承認していない。1988年から始まった紛争はアルメニアに有利となった。1994年5月12日、ロシアが仲裁に入り、キルギスの首都ビシュケクにて、両国間で停戦が合意化された。避難民は推定100万人、多くはアゼルバイジャン人だった。死者は民間人を含め3万人にのぼる。ナゴルノ・カラバフ共和国は、アゼルバイジャン領でありながら、アルメニア軍が実効支配する “独立国”となった。一連の戦いで勝利宣言したアルメニア側は、ナゴルノ・カラバフ自治州を越えて、アゼルバイジャンの領土の一部まで踏み込んだ。停戦合意後も、小規模な衝突が散発的に続く。2016年4月に再度、カラバフを巡り、戦闘状態に入った。4日間の軍事衝突において、双方の政府発表によると、アゼルバイジャン兵12人、アルメニア兵18人が犠牲になった。
 2020年は、7月12日から14日、アルメニア北東部とアゼルバイジャン国境のドブズ地域でアゼルバイジャン側12人、アルメニア側4人の死者が発生する事件が起こった。9月20日にはアゼルバイジャンのアリエフ大統領が「アルメニアが新たな戦争の準備をしている」と自国民に警戒を呼びかけた。
 ついに9月、コロナ禍の中で、4年ぶりにカラバフ戦争が再開した。アルメニア政府は、アゼルバイジャン軍が戦線布告してきたと訴えている。国土防衛のため、アゼルバイジャン軍のヘリコプター2機と無人機3機を撃墜したと発表した。アルメニア国内では、パシニャン首相により、戒厳令と総動員令が発令された。2015年の憲法改正により、多くの権限が大統領から首相に委譲された。ナゴルノ・カラバフ共和国内でも住民の間で緊張感が増している。
 アゼルバイジャン側も応戦する。アリエフ大統領は「アルメニア軍の攻撃を阻止し、民間人の安全を守るため反撃を開始した」と国際社会に声明を発表した。

 写真=2020年ナゴルノ紛争によるアゼルバイジャン軍の侵攻ルート 掲載元 航空万能論より 2020年11月14日付 https://grandfleet.info/european-region/reasons-for-losing-the-nagorno-karabakh-conflict/

 ・矢印の青は予測されたアゼルバイジャン軍の侵攻ルート 
 ・赤色ラインは、アルメニア側のアルツァフ共和国軍の防衛ライン
 ・シュシャを差した赤色の矢印は、実際のアゼルバイジャン軍の侵攻ルート
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 両国の運命を握るのは、第3国である。かつてオスマン帝国時代2度にわたって大虐殺をしたトルコは、アルメニアとは敵対関係にある。同じムスリム系のアゼルバイジャンに支援を表明した。一方アルメニアは、ロシア軍を頼りにする。両国は、軍事同盟を締結する間柄だ。国際社会は、トルコとロシアの代理戦として戦況の行方を注視している。ところがロシア側も、武器の輸出国であるアゼルバイジャンを敵に回すわけには行かない。プーチン大統領は、ラブロフ外相を通して、仲裁に入り、停戦に向けて動き出した。9月27日に勃発した2020年のカラバフ戦争は、国際社会の介入がなければ、長引く可能性が高かった。民族や言語、宗教の違う国々で構成した旧ソヴィエト連邦が、カラバフ地区をアゼルバイジャンの自治州と認めたことにより、新たな紛争の火種となった。現実にはアルメニア人が実効支配する。ロシアを挟んで、両国の外務省の間で3度に渡る停戦合意が行われている間、現場では戦闘が続いていた。イスラエル製ドローンを初め、先進的な武器を抱えるアゼルバイジャンが、アルメニアを圧倒する形で進んだ。11月7日にナゴルノ・カラバフの主要都市シュシャをアゼルバイジャン軍が奪還すると、ようやく決着がついた。アルメニア側が支援するアルツァホフ軍は、首都ステパナケルトへ繋がるラチン回廊の防衛を強化していた。南方が森林地帯のシュシャへの防衛機能は弱く、配置した兵はわずか300人だった。アルメニア人からなるアルツァフ軍は、反撃できず、白旗を揚げたのである。11月10日、プーチン大統領を介して、アゼルバイジャンのアリエフ大統領とアルメニアのパシニャン首相の間で4度目の停戦合意に達した。両国の政府によると、44日間にわたった紛争による死者は5600人と発表された。

 写真=停戦協定時の模様 左側アリエフ大統領 真ん中プーチン大統領 右側パシニャン首相 掲載元 日経新聞2021年11月18日より アゼルバイジャンとアルメニア、国境画定作業開始で合意 

 必 停戦1年後となる2021年時の写真 休戦協定に基づき、2021年内に国境策定が始まる。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM2815V0Y1A121C2000000/
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停戦協定により、京都府程の広さのナゴルノ・カラバフ地区の3分の2の面積が、アルメニア側からアゼルバイジャン側へ返還された。残る3分の1の面積は、アルメニア人の占有地となる。アルメニア人から成るアルツァフ共和国が支配していたラチン回廊(ナゴルノ・カラバフ地区とアルメニア本土を結ぶ通路)沿いのカシャタグ地区は、アゼルバイジャン側に領有権が移った。通航権に関しては、ロシア側が管理すると定められた。アゼルバイジャン側に大きな発展があった。ナゴルノ・カラバフ地区を挟んで飛び地のナヒチュバンとの間の通商を確保したのである。アルメニア側は、ロシア連邦保安庁国境警備隊に通商権の管理を委ねた。

 詳細 停戦協定 (露・モスクワ時間11月10日0時発効) 以下 リンク JllA 日本国際問題研究所 https://www.jiia.or.jp/column/post-38.html

 写真=停戦後の国境を示した図 掲載元 毎日新聞2020年10月31日付 https://mainichi.jp/articles/20201031/ddm/007/030/125000c
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ロシアの仲介によって、一端紛争は収まった。アルメニア側は、ナゴルノ・カラバフの対応に当たってきたパシニャン首相が、2021年4月25日に辞任を表明した。国民に真意を問うため、選挙を前倒しにし、6月20日に投開票を迎える日程を組んだ。国民総選挙の期間までは、辞意を表明しながら暫定首相となる。132議席を決める総選挙において、パシニャン首相が率いる与党と、コチャリン元大統領が率いる最大野党「アルメニア連合」の一騎打ちの構図になると見られていた。国民投票の結果、アルメニア連合の得票率が21,4%に対し、与党である「市民契約党」は53,92%を獲得した。与党の圧勝の結果から、バシニャン首相は、続投することになった。投票率49,4%の数値から国民が政治不信に陥っていることは確かである。

 詳細 2021年6月22日付 朝日新聞DEGITALより https://www.asahi.com/articles/ASP6P7DP5P6PUHBI00F.html

 アルメニアの歴史を振りると、過去からイスラム系勢力に脅かされ続けていた。今もなおイスラム系のアゼルバイジャンとトルコとの亀裂が深まり、修復できない状況に変わりない。西暦451年のカルケドン公会議で、キリスト単性説を唱えたアルメニア教は異端とされながらも、信念を曲げなかった。エルサレム奪回を掲げた十字軍の遠征を発端に、西暦1098年にエデッサ伯国の建国者ボードゥアン1世により、多くのアルメニア人が保護された。西暦1244年にイスラム系のザンギー朝に倒され、国を追われる運命にあう。

 ユダヤ人のように世界にアルメニア人が分散していく中、アメリカ合衆国では最大のコミュニティーを持ち、カリフォルニアではブドウ産業を開発した。歴史を巻き戻すと、サファヴィー朝全盛期の王アッバース1世(在位:1588年から1629年)の下で、堅固な中央官僚制度をジョージア人と共に気付いた。シルクロードの貿易にも従事し、中国・イラン・ヨーロッパを結ぶ絹の貿易販路の拡大に貢献したのである。世界各地でアルメニア人は、経営手腕が評価され、富を築いたのである。ナゴルノ・カラバフ問題は、根本的解決には至っていない。過去にイスラム教と対立した関係から、アゼルバイジャン人との共存は難しいのである。前倒し選挙で勝利しても、再任されたパシニャン首相に対する国民の風当たりはいまだに強い。ナゴルノ・カラバフで暮らすアルメニア人との対話も求められる。戦争終結後、アゼルバイジャンの支配地域が拡大したことにより、ますます混迷を深める。ロシアが駐留する中、先が見えない展開となった。ソヴィエト連邦が解体して丁度30年、独立したそれぞれ15の共和国が、抑圧されてきた宗教観や文化を取戻しつつある。社会主義から資本主義へと転換していく中、天然資源の有無により、貧富の差が生じるようになった。ソ連の中心だったロシア連邦の首都モスクワでは、物価の上昇に伴い、家賃や住居の購入費が跳ね上がっている。一般庶民の暮らしは決して豊かになっていない。社会主義ソビエト時代を懐かしむ声もあがる。資源が乏しいアルメニアは、軍事同盟を結ぶロシアからの輸入に頼るしかない。対照的にバクー油田を抱えるアゼルバイジャンは、潤う一方である。旧ソ連を構成した15の共和国は、経済的軋轢や領土問題を抱えたまま、21世紀を歩み続けている。

参考文献
GNV 2017年7月19日 http://globalnewsview.org/archives/5142
世界史の窓 アゼルバイジャンの歴史
ナゴルノ・カラバフ紛争 ウィキペディア
26人のバクーのコミュサール ウィキペディア


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