mixiユーザー(id:7170387)

2020年06月19日05:34

161 view

日本のお台場

江戸の意外な名残一つに「台場」があります。江戸幕府は1633年に第一次鎖国令を発して以来、200年余りにわたって海外への門戸を閉ざしてきましたが、幕末に東インド洋艦隊の司令長官であるペリー率いる黒船4隻が浦賀に出現して、大慌てとなった幕府は、緊急防御対策として、江戸に入るための重要な航路である品川沖に5基の台場を築造した。

当時、品川台場を築造するためには、木材、石材、土が大量に必要としました。木材は、下総根戸の御林と、多摩の御殿山から伐採されたものが江戸に運ばれ、石材は伊豆・相模・駿河の3国に調達を命じ切り出したと運送に1000人もの石工が動員されたと言います。

そして人口島をつくる埋立用の土は、品川の御殿山、高輪、泉岳寺から運ばれましたが、それでも全然足りなかったらしく、隅田川の土も使用されたそうです。こうした突貫にして未曽有の大工事によって誕生した台場は、もともと海上に11基、河岸に1基の合計12基が築造される予定でした。

しかし、幕府の財政難からそれもかなわず、築造されたものは5基のみとなりました。さらに幕府が全身を傾けて築造した軍事施設にもかかわらず、佐久間象山や大村益次郎、といった署名な兵学者に酷評されました。それも当然で、江戸湾の東側から入られてしまうと実は全く役に立たないのです。

1860年にプロイセンの使節団として来日した同国海軍艦長のラインホルト・ヴェルナーも、「お台場は外見はいかめしいが、近くから観察すると、数百の兵で数時間のうちに5つ全部を占拠できる」と豪語したそうだから、かなりトホホな軍事施設だったのです。

しかし、日米和親条約によって幕府の方針が変わり、結果的に台場が使われることは1度もなかったのです。やがて台場は造船所に利用されたり、灯台が設置されるなど、当初と違う目的で使用されましたが、大正期には第3台場と第6台場が国史跡の指定を受けた。

昭和の初めには第3台場が設備されて台場公園となり、海上の第6台場とともに学術的に貴重な史跡として保全されています。今も台場公園に行くと、高さ5メートルほどの石垣の上に土手が築かれ、兵舎の礎石が残っているのです。


7 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年06月>
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    

最近の日記

もっと見る