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2020年06月16日06:03

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都市における惨状

終戦の数日前に、ソ連軍が日ソ不可侵条約を一方的に破り宣戦布告して国境を越えて進軍してきたため、そこに住んでいたたくさんの日本人は逃げ惑ったのです。終戦になって、日本軍が降参した後もまだそれは続いたのです。

食糧もないままに、小さな子供や老人を背負って徒歩で逃げたけど、途中、怪我、病気に襲われてみんなひどい状態だったのです。多くの人が命を落とした。「このままでは皆死んでしまう」と思った親たちは、幼い命を守るために我が子を、知り合いの中国人に預けて逃げてこなければならないことも多かったのです。

離れ離れにならなければいけない親子もいたのです。戦争はなんと惨いものなのだろうか。8月15日の降状停戦後、間もなくソ連が入城して、日本軍の武双を解除しました。武装解除は無事に進行した。場所によって多少の差はありますが、占領直後しばらくは、日本人は概して従順で抵抗したケースはほとんどないのです。

ソ連軍ばかりではなく、所によって国府軍あるいは中共軍が入ってきたところもあります。やがて彼らは、その土地の日本人や親日満人の有力者を検挙し投獄しました。シベリアに送られたものが多かったが、現地で人民裁判にかけられ、戦犯の罪名をつけられて、引きずり回された後に銃殺というケースが多かったと言います。

しかも日本人は仕事を奪われ餓死した。おびただしい数の日本人の子供が中国人に売り渡されていた。極限的な死線に突き落とされた経験のないものは、この現象を理解することは難しいことでしょう。連日の餓死のために、泣き続ける幼児をどうしたらいいか。

親子で自殺するか、死を避けるためには売るほかない。親の最後の情か、子を売るには、中流以上の親切そうな中国人を選んでおり、今では成長して結婚している日系人が、ハルビンあたりには多いのです。親子心中も多かったが、死ぬより良かったとも言えます。

極限的な迫害と、餓死したところに伝染病が流行しましたが、占領権力は病人を隔離するのみで、治療などしません。彼らには文明的医療ができなかった事情もあります。しかも日本人への引揚げも、やすやすとは許さなかったのです。こうして、農民のみではなく都市でも、日本人の居留民で非命の死を遂げたものの数は急上昇したのです。

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