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2018年09月17日12:08

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歌枕紀行「河尻」5

 なにわ島めぐりリゾート・・・とは言っても、河尻は地名ではなくて、神崎川の河口(尻)を漠然とあらわす言葉です。つまり、以前の神崎も加島も田蓑島も御幣島も、みんな含まれます。
 今では郊外のありふれた町という感じなのに、やたらと古典に見えるのは、何らかの意味を表していると感じます。思うに海抜が低いということは、昔はこの辺りが川と海との境界で、広い意味で”都の玄関口”と見なされていたのかも。
 潮が満ちるにつれて浜辺はどんどん水没し、高い部分が残されて、あちこちに島が出現する。引き潮になると沖のほうまで陸続きとなり、浅瀬の魚貝を目がけて水鳥が集まってくる・・・。大阪の原風景ですね波
 
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◎六日。水脈串(ミヲツクシ)のもとより出(イ)でて、難波(ナニハ)に着きて、河尻に入る。
(六日。停泊していた水脈串のもとより出て、どうにか難波に着いて、河尻に入ることができた。)

 みな人々、媼(オムナ)・翁(オキナ)、額(ヒタヒ)に手をあてて喜ぶこと、二つなし。
(乗員はみな、婆さんや爺さんまで、額に手をあてて喜ぶ様子は、大変なものである。)

 かの船酔(フナエヒ)の淡路の島の大御(オホイゴ)、「都近くなりぬ」と言うを喜びて
(あの船酔いで寝込んでいた、淡路島出身のお婆さんも、「都が近いぞ」と周りが言うのを喜んで)
 
 船底より頭(カシラ)をもたげて、かくぞ言へる。
(船底より頭をもたげて、こんな歌を詠んだ。)


   いつしかと いぶせかりつる 難波潟(ガタ)

                   葦(アシ)漕ぎ避(ソ)けて 御(ミ)船きにけり 

(まだかまだかと待ち焦がれていた難波潟に、葦を漕ぎ分けて、わが船はやっと着いたよ!)


 いと思ひの外(ホカ)なる人の言へれば、人々あやしがる。
(さっきまでフラフラだった人が予想外に歌ったので、人々はビックリ。)

 これが中に、心地なやむ船君、いたく愛(メ)でて
(その中で、体調のすぐれない船君(貫之)は、その歌をたいそう褒めて)

「船酔したうべりし御(ミ)顔には似ずもあるかな」と言ひける。
(船酔いでゲッソリなさっていたお顔に似合わぬ、立派な歌ですなぁ〜」とからかった。)


【紀貫之】866?-945?、中級貴族の紀望行の子。抜群の歌才により、宮中からたびたび代作を依頼され、ついには『古今和歌集』の撰者に選ばれた
【土佐日記】貫之が土佐(高知県)の国司の任を終えて船出した承平四年(934)十二月から、翌年二月に京に着くまでの様子を記したもので、日本最初の仮名文字の日記
【六日】承平五年二月。前日に住吉大社の沖を通過した船は、突然の嵐に停泊を余儀なくされた
【みをつくし】大阪湾は遠浅なので、船が通行可能な部分に、目印の杭を打ちこんでいた。今の大阪市の市章になっている
【難波】淀川河口の総称
【額に手をあてて】神に感謝するしぐさ
【大御】年長の婦人の敬称
【葦】難波の名物

                               紀貫之『土佐日記』


 
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