「福山海軍航空隊」の誕生から終焉までの続編です。
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「福山海軍航空隊庁舎前の士官及び下士官全員」
訓練は本格化し、実戦機も配備され要地(呉軍港)防空に協力。
しかし、次第に燃料不足が深刻となり、実用訓練は特別攻撃訓練に移行される。
また、一部の練習機は解体され飛行教育も中止となる。
沖縄戦への特別攻撃が数度発令され、特攻による戦死者は9名を数える。
その後、実用機は本土決戦用に温存され、田島、神島(笠岡市)等に分散され隠された。
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「米軍機初来襲」
米海軍は空母を基幹とする第58任務(機動)部隊を編成。
1945年3月18日、九州及び中国西部の飛行場や軍事施設を攻撃。
19日には高知沖に艦隊を進め、米軍機の主要攻撃目標は呉軍港在伯艦隊及び呉海軍航空隊でした。
その空襲援護により、周辺の飛行場を攻撃する中に福山海軍航空隊が含まれていた。
福山海軍航空隊への来襲は終戦までに米軍沖縄基地の陸上機や艦載機により数回の攻撃があった。
写真は攻撃目標確認のために撮影されたもの。
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「神風特別攻撃隊の編成」
琴平水偵隊編成による出撃時の記念写真です。
この中に9人が沖縄本島洋上で突入している。
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「爆装された零式観測機」
当時は飛べる飛行機は何でも爆装して特攻に出ていた。
この零式観測機も特攻機特有の爆弾支柱が取り付けられている。
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「特攻機を見送る飛行機整備兵」
特攻隊員になるための飛行練習生と飛行機整備蔽が交流することは無かった。
飛行練習生は上官に厳しく殴られ、殴られる事で考える事を停止させ、絶対服従をさせたと言う。
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「福山海軍航空隊特別攻撃隊の編成式」
1945年5月20日、全員が格納庫と滑走台の間の広場に召集される。
広場には白い布で覆われた長机が2列に並び、水杯(みずさかずき)の茶碗が置かれている。
航空隊司令の訓示があり、上官から特攻隊員に酒が注がれる。
生きて帰ることはないと覚悟を決めて、茶碗を机に叩きつけた。
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「零式観測機全速滑走での出撃」
見送る者が整列する中を特攻隊員は飛行機へ走り抜く。
隊員の顔には涙が光る。
特攻機は海面を滑走しながら飛び立って行った。
整備兵は無事に飛び去るまでは責任がある。
その機影が見えなくなるまで緊張して見送った。
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「琴平水偵隊特攻突入航跡図」
天草海軍航空隊基地に待機した後、次に指宿海軍航空基地で出撃の機会を待つ。
1945年6月25日〜28日にかけて零式水上観測機による沖縄本島付近の米艦隊に突入。
特攻隊員9人が戦死した。
鈍足の水上機まで特攻に使用するとは・・もはや、まともな戦争行為ではない。
このような無謀な作戦を下す軍部に怒りを感じる。
こんな戦争をしても日本の未来はない。
つづく
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