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2016年09月03日06:13

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古戦場めぐり「大坂夏の陣(大阪府大阪市)」

古戦場めぐり「大坂夏の陣(大阪府大阪市)」

◎『大坂夏の陣』
「大阪夏の陣」は大坂の陣の最後の決戦となり、戦国時代(安土桃山時代)最大で最後の戦いとなりました。天王寺、岡山に陣を構える豊臣方に対し、南方から徳川軍が押し寄せました。
慶長19年(1614)11月15日に始まった「大坂冬の陣」は、12月16日に徳川方に有利な条件で講和が結ばれることになりました。講和条件は、「秀頼・淀殿の安全の保障と大坂城居住、豊臣方の軍勢の罪の不問」と引き換えにするもので、「本丸を残して二の丸・三の丸を破壊して外堀を埋めること」と「大野治長と織田有楽から人質を差し出すこと」という、徳川方からの条件を受け容れました。
和解のために、家康・秀忠と秀頼の誓紙の交換が終わると、家康は即座に「大坂城の外堀・内堀の埋め立て」を、松平忠明・本多忠政・本多康紀に命じます。将軍・徳川秀忠の監督の下で、慶長20年(1615)1月19日までに大坂城の堀の埋め立て工事が完成して、大坂城は軍事防衛的な観点からほぼ無力化されました。屈辱的な講和条件を呑まされた大坂城では、「江戸幕府と家康・秀忠に対する不満怨恨」が強まっており、3月になると秀頼・淀殿は、不満を鬱積させる浪人衆にも押されて、家康の許可を得ずに、大坂城の城壁の修理と埋め立てられた堀の掘削を行います。豊臣軍は、大坂城の防衛能力を回復させながら、残った城の財力を用いて、再び大勢の浪人(兵力)を駆り集めて、徳川軍との戦争に備えます。この動きに対して家康は使者を派遣し、秀頼が大坂城を退去して大和か伊勢に移ること、もしくは集めた浪人の軍勢を解散・解雇することを命じました。しかし、幕府と家康に対する敵意を募らせる大坂城では、この命令を無視することに決めて、更に軍勢を集めました。4月4日、家康は駿府城を出発して18日に京都二条城に入ります。将軍秀忠も、4月10日に江戸を出発して21日には伏見城に入りました。家康は、豊臣秀頼が大坂城を退去して大和郡山に転封されるか、集めた浪人の軍勢を解散するか、という最後通牒を突きつけますが、大坂城の豊臣軍は、この申し出を拒絶して、「大坂夏の陣」が開始されます。
しかし、大坂冬の陣の講和条件によって埋め立てられていた、大坂城の外堀・内堀が完全に修復できていなかったので、豊臣軍は籠城戦を選択することができず、大和・住吉・堺などにおける城外の野戦に打って出ました。大坂夏の陣では、徳川方は約15万5000の大軍勢を結集させ、豊臣方はそれに対して5万5000の軍勢しか集めることができず、開戦当初から豊臣方のほうが相当に不利な状況に置かれていました。5月5日に家康が二条城を出陣して、翌6日に大規模な戦闘が行われ、大坂城南東の道明寺や藤井寺、若江などでは双方に大きな死傷者が出ました。
5月7日の午前中にも、徳川方と豊臣方の双方が激しくぶつかり合う戦闘が行われました。午前中は、豊臣方が何とか有利な戦況を作り上げて、豊臣方の勇将である真田信繁(幸村)が、家康が陣取る徳川本陣へと切り込んでいきました。真田信繁は、後一歩で大御所・徳川家康を討ち取れるような場所にまで、決死の覚悟で突入しました。しかし、衆寡敵せず越前の松平忠直の軍勢に討ち取られてしまいました。松平忠直の部隊は、真田信繁を打ち倒した勢いを借りて、一気に大坂城へと攻め寄せていき、本丸の占拠に成功します。徳川方にも大きな人的損失が出ましたが、松平忠直と前田利常の抜群の武功が目立ったこともあり、忠直の大坂城制圧によって、大坂夏の陣も徳川軍の勝利に終わりました。
5月7日の夕方、内通者の放火によって大坂城は炎上し、深夜には秀吉が築城した天下の名城・大坂城は、完全に陥落しました。豊臣秀頼の正室となっていた徳川秀忠の娘・千姫は、大坂城炎上前に城を抜け出して徳川軍に下りました。その千姫の、秀頼・淀殿の助命嘆願も虚しく、山里丸という蔵に追い詰められた秀頼と淀殿は、5月8日正午過ぎに自害しました。千姫の大坂城脱出には、大野治長が協力したともいわれますが、治長は千姫を救助する引き換え条件として、家康に秀頼と淀殿の助命を願い出ていたようです。しかしながら、深謀遠慮の計略家である家康が、治長のそのような助命嘆願を受け容れるはずもなく、豊臣秀頼と淀殿は、燃え落ちた大坂城において自害することになりました。
秀頼の男児であった8歳の国松は、大坂城から落ちて伏見に潜伏していました。ですが、徳川方に発見されて、5月23日に京都六条河原で斬首されました。秀頼には女児も1人いましたが、この女児は鎌倉・東慶寺で出家させられました。大坂冬の陣・夏の陣によって、徳川家康の主筋であった豊臣家は滅亡することになり、秀吉の威光を葬り去った徳川将軍家が幕藩体制の下に天下経営を行う、江戸時代が本格的に始まります。家康はわずか2年で、征夷大将軍を三男の秀忠に譲りました。しかし、幕府の政治的意志決定の権限は、依然として駿府に居住する大御所の家康が握っており、この院政的な江戸幕府初期の政治形態は「大御所政治」と呼ばれました。

【真田信繁決死の奇襲・天王寺口の戦い】
今年の大河ドラマ「真田丸」。主人公・真田信繁(幸村)決死の奇襲といわれる、「天王寺口の戦い」があります。
5月7日、最後の決戦のため豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築しました。天王寺口は、真田信繁・毛利勝永など1万4500、岡山口は大野治房ら4600、別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計1万5000が布陣。これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟4万を茶臼山方面に、その前方に松平忠直1万5000が展開しました。天王寺口は本多忠朝ら1万6200が展開し、その後方に徳川家康1万5000が本陣を置きました。岡山口は前田利常ら計2万7500。その後方に近臣を従えた徳川秀忠2万3000が本陣を置きました。正午頃に開始された「天王寺・岡山合戦」は、豊臣方の真田信繁・毛利勝永・大野治房などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、家康・秀忠本陣は大混乱に陥るなどしましたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後3時頃には壊滅します。唯一戦線を維持し続けた毛利勝永の指揮により、豊臣軍は城内に総退却しました。家康の首を取れなかった信繁。疲弊して近くの畦で休んでいるところを、松平隊の越前兵に討たれ、49年の生涯を閉じました。

【その他の戦い】
豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、4月26日に筒井定慶の守る大和郡山城を落とし(「郡山城の戦い」)、付近の村々に放火。28日には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちします。治房勢は、4月29日には一揆勢と協力しての紀州攻めを試みますが、先鋒の塙直之・淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い(「樫井の戦い」)で討死してしまいます。
5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍3万5000を豊臣勢が迎撃した、「道明寺・誉田合戦」が起こります。寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取ることができず、後藤基次隊2800は単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、松平忠明ら2万以上の敵勢に攻撃を受け、基次は討死しました。次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も、小松山を越えた徳川軍と交戦し、薄田兼相らが討死しました。さらに遅れて真田信繁、毛利勝永ら1万2000の兵が到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止めました。しかし、豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して後退。幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃を行わなかった。同日、木村重成の6000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5300の兵が、河内路から大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃した「八尾・若江合戦」が起こっています。まず、長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊5000を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲りましたが、幕府方の援軍に阻まれ、後退中に追撃を受け壊滅しました。木村重成も藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊3200らと交戦の末に討死しました。

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