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2015年12月27日06:43

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鎌倉市さんぽ「腰越・満福寺(義経の腰越状)から片瀬龍口寺」

鎌倉市さんぽ「腰越・満福寺(義経の腰越状)から片瀬龍口寺」

○「浄泉寺」(腰越2-10)
江ノ電の腰越駅を降りると、南東に「浄泉寺」があります。大正6年7月まで小動神社と一緒にあり、新田義貞が鎌倉攻めの際に八王子社(小動神社)に納めたとされる剣が、保管していたともいわれます。本尊の不動明王は、左手で剣を持っていることから「左剣不動明王」と呼ばれます。旧参道入り口には、「相模二十一ヶ所弘法大師第六番」と書かれた石碑があります。明治5年に学制がしかれた後、散在していた寺小屋をここに集めて発蒙学舎となり、これが腰越小学校の始まりです。

○「小動神社」(腰越2-9)
浄泉寺の近く、海に突き出た爽やかな小動山に小動(こゆるぎ)神社があります。源頼朝に使えた佐々木盛綱が1185年に創建。小動神社の例祭は毎年7月に8日間、対岸の江ノ島にある夫婦社の八坂神社の神輿を腰越に迎えて行われます。
【小動神社の庚申塔】
境内の一番奥、右手社殿とは反対の左側の崖際に3基の庚申塔があります。
【小動岬】
小動岬は幕末には台場(八王子山台場)が設置され、川越藩・会津藩・長州藩などが沿岸の監視に携わっていました。展望台があり、相模湾を一望でき、さらに晴れた日は富士山や伊豆半島も望めます。作家・太宰治が心中事件を起こした場所としても知られており、太宰は田辺あつみと睡眠薬を飲んで自殺をはかり、太宰は助かりましたが、あつみは19歳で死にました。この体験をもとに書かれたのが『道化の華』です。

○「満福寺」(腰越2-4)
小動神社から北に向かうと、江ノ電踏切と山門に向かう石段が目と鼻の先に「満福寺」があります。天平16年(744年)僧・行基が開山。
【腰越状】
満福寺は、源義経が頼朝の許しを乞うため送った「腰越状」で有名です。元歴2年(1185)5月、平氏を討った義経は鎌倉に入る事を許されず、この満福寺に逗留し兄頼朝に手紙を書きます。実際には弁慶の筆といわれ、自筆の下書きがあります。4年後、再び満福寺に戻った時に、義経は平泉で自刃し一個の首に成り果てていました。

○「勧行寺」(腰越2-19)
腰越駅から北に向かうと「勧行寺」があります。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。創建は嘉元元年(1303)。開山は日実上人。本尊は、三宝祖師寺宝として海中出現文殊菩薩像で、境内には観世音菩薩石像があります。

○「妙典寺」(腰越2-20)
勧行寺から東に向かうと「妙典寺」があります。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。延慶元年(1308)、天目によって開かれました。土地の人はこの辺りを谷戸と呼んでいたことから、妙典寺は「腰越の谷戸寺」と呼ばれていました。開山の天目は、日蓮の門弟九老僧の一人に数えられ、大町の辻の本興寺の開基ともなっています。池上宗仲が作ったと伝わる天目像が安置されています。

○「東漸寺」(腰越2-22)
妙典寺の北隣に「東漸寺」があります。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。正平7年(1352)、千葉中山の法華経寺からきた日東によって開かれました。境内には、日本薬学の基礎を築いた長井長義夫妻の記念碑が建てられています。
【薬医門】
東漸寺の山門は薬医門で、龍口寺門前で饅頭屋(上州屋)の主人が、昭和55年に妻の菩提を弔うために寄進したもの。

○「本龍寺」(腰越2-26)
三叉路まで戻り北に向かうと「本龍寺」があります。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。唐破風玄関に龍の彫刻が見え、木鼻も龍であるのは珍らしく寺名に因るものです。

○「本行寺」(腰越3-25)
神戸川沿いに行くと、石碑に龍松山本行寺と書かれています。普通のお寺と違ってビルになっていて、1階は駐車場、2階は本堂、3階から上は住居のように見えます。
【神戸森下の庚申塔】
腰越駅を出てすぐに北に向かいます。神戸川の東側に沿ってしばらく進むと三叉路があり、その角に1基の庚申塔があります。

○「宝善院」(腰越5-13)
神戸川沿いのバス道路を北東に向かうと、「宝善院」の入口があります。開山の泰澄は、信仰していた十一面観音像をこの地に祀りました。それが宝善院のはじまりだと伝えられています。創建は、天平神護年間(765〜767年)とされています。開山の泰澄は、「越の大徳」(越前・越中・越後で並ぶ者のいないほどの徳の高い僧)と呼ばれており、加賀の白山を開いた人物です。
【腰越中学校の庚申塔】
宝善院の東、腰越中学校の西側の裏の出入口のすぐ向側に3基の庚申塔があります。行って見たのですが、移設されたようで見当たりませんでした。
【中原観音堂跡の庚申塔】(腰越5-11)
宝善院の南、腰越小学校の東にある中原観音堂跡に5基の庚申塔があります。

○「霊鷲寺」(腰越5-5)
腰越小学校の南に「霊鷲寺」があります。宗派の佛眼宗(ぶつげんしゅう)は、菊池霊鷲により1951年に開かれました。

○「法源寺」(腰越5-1)
龍口寺の北東に「法源寺」があります。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。嘉元元年(1303)、日行によって開かれました。龍ノ口刑場に引かれていく日蓮に、尼僧の桟敷尼(法源寺は実家の菩提寺)が、ぼた餅を食べさせた逸話から「ぼたもち寺」と呼ばれています。桟敷の尼は、建仁3年(1203)に起こった比企氏の乱によって滅びた比企能員の夫人の妹という説があります。
【人まねき庚申塔】
本堂裏手の墓地入口に有名な庚申塔があります。寛文7年(1667)の銘の入ったこの庚申塔は、「人まねき庚申塔」とも呼ばれています。

○「龍口寺」(藤沢市片瀬3-13)
江ノ電江の島駅の東側に「龍口寺」があります。寺伝では、日蓮の弟子日法が延元2年(1337)、龍ノ口法難の霊跡に堂を建て、自作の日蓮像を安置したのが龍口寺の始まりと伝えられています。神奈川県唯一の木造五重塔のほか、大阪雷雲寺の発願で竣工した山門の彫刻など見どころが多く、厄除けの霊場として有名です。本堂は、龍ノ口法難の際に日蓮が敷いていた敷皮が安置されているため、「敷皮堂」とも呼ばれています。
【祖師堂】
慶長年間(1596〜1614年)に島村采女が土地を寄進し、日尊によって祖師堂が建てられました。本堂脇に采女の墓があります。加藤清正は、祖師堂の建立を日尊に願ったといわれており、本堂内には加藤清正像も安置されています。
【龍口寺輪番八ヶ寺】
龍口寺は明治19年まで住職がおらず、近隣の八つの寺が順番に霊場を守ってきました。八つの寺は、片瀬の常立寺・本蓮寺、腰越の本成寺・勧行寺・法源寺・東漸寺・妙典寺・本龍寺です。
【御霊窟】
境内左側に、日蓮が一時的に入獄させられた土牢「御霊窟」があります。現在は、中に日蓮聖人の銅像が安置されています。
【刑場跡】
龍口寺入口の左側に刑場跡があります。鎌倉時代、日蓮は龍ノ口で斬首されそうになりました(龍ノ口法難)。日蓮以外にも、元の使者や北条時行などもこの地で処刑されたといいます。ちなみに、龍口の名前の由来はこの地に残る五頭龍伝説からきています。むかし、悪事を働いていた五頭龍が江ノ島の弁天様に惚れ、改心してこの地の守護神になったとされるところからこの地名となりました。

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