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2015年12月20日06:48

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鎌倉市さんぽ「六国見山ハイキング(明月院・円覚寺)」

鎌倉市さんぽ「六国見山ハイキング(明月院・円覚寺)」

◎『六国見山ハイキングコース』
北鎌倉駅を起点として、権兵衛踏切から小道を抜けて鎌倉高校のある高野台の団地に行き、そこから登山道に入って壮大な眺望の六国見山(ろっこくけんざん)山頂を目指し、明月院の方に下りてくるコースで、北鎌倉の豊かな自然を楽しむことができます。六国見山山頂以外ではあまり展望に恵まれていないこともあって、やや地味なコースといえます。そして、ハイキングの後に明月院と円覚寺に寄ってみました。

○「北鎌倉小瀧美術館」(山ノ内495)
JR北鎌倉駅から山手の横須賀線に沿って、線路沿いの細い道を大船へと向かうと、すぐに右手に「北鎌倉小瀧美術館」が見えてきます。日本におけるヴェネツィアンガラス収集の第一人者・小瀧千佐子氏が、20年かけて集めたコレクションと写真家小瀧達郎の作品(現在休止中)を展示しています。しかし最近閉館したようで、今は仏日庵の施設になっています。

○「八雲神社」(山ノ内585)
JR北鎌倉駅のホームが切れない右手に、八雲神社への石標と階段があります。鎌倉時代、疫病が流行した際に、村人が祇園八坂社の神霊を勧請したと伝えられ、「午頭天王」と称されました。また一説には、室町時代に関東管領上杉憲房が武運長久を祈願し勧請したとも伝えられます。
【鎌倉最大最古の庚申塔】
鳥居下の左脇にある物置小屋の左側の細い道をたどると、 右手の崖に沿って11基の庚申塔が並んでいます。寛文5年銘(1665)の銘がある庚申塔は、三申が浮き彫りされた塔で鎌倉最大にして最古のものだそうです。

○「好々亭門トンネル」
八雲神社の裏手の道路を下って行くと、左手に「好々亭門」の短いトンネルがあります。残念ながら会席料理店「好々亭」は数年前に閉店していますが、小津安二郎監督の映画にも良く登場しています。

○「権兵衛踏切」
トンネルを抜けて横須賀線の線路に沿っていくと、やがて十字路に出ると「権兵衛踏切」(ごんべえふみきり)です。決して「名無しの権兵衛」から来ているのではなく、横須賀線が開通する前に、その踏切周辺の土地を所有していた大地主の名前が権兵衛さんだったからです。

○「高野台団地」
権兵衛踏切の十字路を右折して細い路地に入っていきますが、ここには「六国見山ハイキングコース」を示す道標がないので注意が必要です。緩やかな上り坂をしばらく進み最後に石段を上り切ると、坂上の高野台団地に出ます。広い道と交差した丁字路に、「至ル 六国見山(約六百五十米)」の標柱があるので、右折して団地の中を上って行きます。

○「六国見山登山口」
やがて左に曲がり丁字路となり、ここを右折してすぐ左に曲がって直進すると、突き当りの南口広場に「至ル六国見山(約二百米)」の標柱があります。広場に、「六国見山森林公園」と書かれた大きな標柱と案内図があるので参考になります。ここから左手の階段の上りとなります。いきなりの上りはきついですが、距離的には山頂まで200mほどです。植林帯の斜面に続く幅の広い横木の階段を、右・左と曲がりながら上っていきます。途中、夫婦のリスを見るなど楽しみながらの上りです。
【六国見山森林公園】
六国見山の山腹に広がる樹林地を、自然のふれあいや、大島、富士山、丹沢などの眺望景観を大切にした公園として整備され、近隣の身近な緑として親しまれています。

○「六国見山展望台」
植林帯の中の階段をさらに上り、最後に笹のトンネルを抜けるともうそこは六国見山の展望台です。それほど広い場所ではありませんが、まるで築かれた塚のようになっています。「浅間大神」と書かれた石碑と「六国見山々頂」の杭があります。しかし山頂からの展望はなかなかのもので、鎌倉市街地と海が見えまさに絶景です。ちなみに山の名の由来は、伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総の6つの国が見えるところからきているといわれています。元亨3年(1323)から建武2年(1335)頃の「円覚寺境内絵図」に「六国見」(ろっこくけん)と記載されているのが初見とされています。また、円覚寺山号の「瑞鹿山」と呼ばれることもあります。

○「稚児墓」
下りは、今泉台団地を経て明月院に向かいますが、「至ル 稚児墓(約八十米)」の標柱に従って進みます。広くて緩やかな山道を歩いていくと、すぐ右手にその稚児墓が現れます。この墓は、鎌倉の開拓者・染屋時忠の子(娘)の墓と伝えられています。
【染屋時忠の娘伝説】
由井の長者といわれた染屋時忠の娘が大きな鷲にさらわれ、その後、娘の残骨が各地で発見されました。その一つが六国見山の南だったという伝説があります。染屋時忠の娘に関する伝説は、来迎寺、魔の淵のお地蔵さま、辻の薬師堂、妙法寺、多聞院、塔ノ辻にも残されています。
【六国見山三等三角点】
稚児墓からは、とても楽なアップダウンが続きます。しかし眺めはよくありません。しばらくして六国見山の三等三角点(標高147m)の標石がありますが、樹林の中で展望は期待できません。

○「今泉台団地」
なおも東の今泉台の団地へ向かう道は、基本的に楽な下り坂が続きます。下っていくと分岐があり、道標はありませんが右は円覚寺への道です。ここは左の道を直進し、5分ほどで今泉台団地の南側にひょっこりと出ます。舗装道路を左に少し下り、右折して少し下ると正面には車の通れない細い道が左下に向かって続いています。その道を下っていくと舗装道路になり、この急坂を下りきると明月院通りと合流します。

○「明月院奥の庚申塔」
合流したら明月院通りを右折して、緩やかな下りの車道を歩いていくと、名月院の入口手前100mほど、右手の崖の浅く四角に掘ったところに全部で5基の石塔があります。庚申塔は左端から3基並んでいます。

○「明月院(アジサイ寺)」(山ノ内189)
さらに下ると左手に「明月院」があります。明月院は、「平治の乱」で死んだ首藤刑部大輔俊道の菩提を弔うために、永暦元年(1160)山内首藤経俊によって創建された「明月庵」が起源とされます。のちの康元元年(1256)、五代執権北条時頼がこの地に最明寺を建て、その最明寺を前身として八代執権北条時宗が蘭渓道隆を招いて「禅興寺」を創建しました。康暦2年(1380)、鎌倉公方の足利氏満の命で関東管領の上杉憲方が禅興寺を中興し、明月庵も明月院と改められ、禅興寺の支院の首位に置かれました。禅興寺は、関東十刹の一位に列せられるほど興隆しましたが、明治初年に廃寺となり、支院の明月院だけが残されています。
【アジサイ寺】
明月院はアジサイ寺として有名で、アジサイの時期にはこの道にあふれるほどの観光客が押し寄せます。
【本堂後庭園】
本堂(方丈)裏手に広がる「本堂後庭園」は、ふだんは本堂の円窓ごしにしか見ることができませんが、初夏の紫陽花・花菖蒲の咲く時期と、晩秋の紅葉の時期のみ特別公開され、立ち入ることができます。この円窓ごしに景色を眺める趣向など、和尚さんが京都出身ということもあり、武士の都・鎌倉にあって、明月院は、どこか京都のような雅な雰囲気が漂うお寺です。
【瓶ノ井(鎌倉十井)】
開山堂(宗猷堂)の傍らにある井戸。内部が水瓶のようなふくらみがあることから「瓶ノ井」(つるべのい)と呼ばれています。また、「水かめのような小さな井戸」という意味から「甕ノ井」(かめのい)とも呼ばれます。現在でも使用することのできる井戸で、鎌倉十井の一つ。
【明月院やぐら】
開山堂左手にあるやぐらは、「明月院やぐら」と呼ばれるもので、鎌倉最大のやぐら(間口約7m、奥行き6m、高さ3m)です。やぐら内の中央に建てられた宝篋印塔は、山内上杉家の上杉憲方のものと伝えられています。宝篋印塔背後の壁面には、釈迦如来、多宝如来が浮き彫りされ、その周りに十六羅漢の浮き彫りもあるため「羅漢洞」とも呼ばれています。一説には、平治の乱で死んだ首藤俊道の菩提を弔うために、子の山内經俊が造ったやぐらであるともいわれ、そこへ、上杉憲方が生前に墓塔を建てたとのだといいますが、定かではありません。

○「西管領山道の庚申塔」
名月院から下って行くと、すぐの左手の狭い道を山に向かって上ります。ここは個人の敷地内になります。途中の右側の崖の下、岩の窪みの中に1基裾に2基の庚申塔があります。

○「葉祥明美術館」(山ノ内318)
葉祥明美術館は1991年に開館しました。イタリア・ボローニャ国際児童図書展グラフィック賞受賞作家である葉祥明の初期の作品から、水彩画・油彩画・デッサンなどの原画を展示しています。美しい原画の数々、言葉の数々を通して疲れた心を癒し、安らぎのひと時を過ごせます。

○「円覚寺」(山ノ内409)
のんびりと横須賀線線路沿いの裏通りを歩いていくと、ほんの少しで北鎌倉駅が見えてきます。その直前にあるのが円覚寺です。円覚寺は鎌倉五山第二位。元寇(文永・弘安の役)によって死んだ兵達の菩提を弔うため、弘安5年(1282)、八代執権北条時宗によって建立され、開山には宋の禅僧無学祖元(むがくそげん)が招かれました。寺名の由来は、起工の際に地中から「円覚経」を納めた石櫃が出てきたことによります。鎌倉幕府の祈願所として発展し、幕府滅亡後は夢窓疎石が住職となり、後醍醐天皇の力もあって繁栄、42の支院を持つ寺となりました。山門や洪鐘など見所が多く、かつて夏目漱石や島崎藤村も参禅しました。
【円覚寺の塔頭】
円覚寺には多くの塔頭があります。塔頭(たっちゅう)とは、大寺院の境内にある別寺・別坊をいい、僧侶の住居や修行の場となっています。本来は、禅宗のお寺で高僧が亡くなられたときその墓を塔所といい、その傍らの弟子たちが徳を偲び暮らした小坊のことをいいました。円覚寺には往年42ヶ所、現在でも18ヶ所の塔頭があります。円覚寺のほとんどの塔頭は拝観できません。仏日庵、黄梅院、松嶺院(牡丹の見ごろの頃)の3ヶ所のみ拝観することができます。
【白鷺池】
円覚寺総門と横須賀線の線路を挟んだ反対側に白鷺池といわれる2つの池があります。この辺りはかつては円覚寺の境内でした。横須賀線の工事で池は小さくなりまわりの様子も変わってしまいました。円覚寺の開山の無学祖元が鎌倉に来たとき鶴岡八幡宮のご神霊が白鷺となって道案内をしてこの池に降りたったという伝説が伝わっています。
【白鹿洞】
仏日庵の門前,道を挟んだところに「白鹿洞」といわれている小さな洞窟があります。円覚寺の落慶開堂の日,無学祖元の説法が始まると白い鹿の一群が現れ話しに耳をかたむけたと伝えられています。その鹿の一群はこの洞窟から現れたといいます。円覚寺の山号の「瑞鹿山」はこの話を元に決まったと伝えられています。
【仏日庵】
佛日庵(ぶつにちあん)は、八代執権北条時宗の廟所(開基塔)。九代執権貞時・十四代執権高時も合葬されています。本尊は地蔵菩薩。鎌倉観音巡礼第33番札所(十一面観世音)・鎌倉地蔵巡礼第14番札所(延命地蔵)。檀那塔で塔頭とは違う性格をもっていましたが、北条氏滅亡後は次第に衰微し、天文年間(1532〜55)以後に鶴穏周音(かくいんしゅうおん)が再興し塔頭としました。廟所(本堂)には、十一面観音像と、僧の姿をした時宗・貞時・高時の木像坐像が祀られ、残されている『佛日庵公物目録』は、中国から日本への文化の流入の歴史を探るうえで貴重な資料となっています。『新編相模国風土記稿』によると、堂の下には時宗・貞時・高時の3人の遺骨を納めた石櫃があると伝えられ、時宗の妻覚山尼の骨も納められているといいます。
境内に植えられている「ハクモクレン」と「泰山木」は、中国の小説家魯迅より贈られたもの。ハクモクレンの美しさは大佛次郎の『帰郷』に描かれています。また、境内の烟足軒(えんそくけん)は鶴穏周音の、不顧庵(ふこあん)は誠拙周樗(せいせつしゅうちょう)の隠居所として建てられたのが始まりで、北条時宗の命日にあたる毎月4日には、「四日会」という茶会が開かれます。この四日会は川端康成の『千羽鶴』の舞台となりました。烟足軒前の「枝垂れ桜」は大佛次郎の妻より贈られたもの。葉書の語源となった「多羅葉」も植えられています。
【黄梅院】
黄梅院(おうばいいん)は円覚寺がある谷の最も奥にある塔頭です。第十五世夢窓疎石(夢窓国師)の塔所。本尊は千手観音菩薩。文和3年(1354)、門弟の方外宏遠(ほうがいこうえん)が開創しました。八代執権北条時宗の菩提を弔うため、覚山尼(かくざんに)の建てた華厳塔があった場所。足利将軍家や鎌倉御所の手厚い保護を受け関東夢窓派の拠点となりました。応安元年(1368)、室町幕府二代将軍足利義詮の遺骨が分骨され、三代将軍義満は、塔主の義堂周信に怠りない勤行を命じました。この分骨によって足利氏の菩提寺としての性格も帯びるようになります。本堂には、南北朝時代の木造夢窓国師座像と中国の銅造千手観音立像などを安置しています。また、鎌倉時代のものとされる「夢窓国師の頂相」のほか、「華厳塔勧縁起疏偈序」、「黄梅院古図」を所蔵しています。
【松嶺院】
松嶺院(しょうれいいん)は、第百五十世叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。本尊は釈迦牟尼。もとの不閑軒。中興開基は足利晴氏の姪松嶺院妙円尼。寺地には、第四十世大拙祖能の塔所「青松庵」があったと伝えられています。木造大拙祖能坐像、木造叔悦禅懌坐像が安置されています。作家有島武郎は、大正8年、『或る女のグリンプス』(のちに『或る女』と改題)の後編をここ松嶺院で書きはじめています。墓地には、俳優佐田啓二、女優田中絹代、オウム真理教の被害者坂本弁護士の墓があります。普段は門が閉ざされ拝観できませんが、山野草の咲く季節には特別拝観が行われています。

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