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2015年12月08日07:09

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逗子市さんぽ「小坪・小坪寺から披露山公園」

逗子市さんぽ「小坪・小坪寺から披露山公園」

○「光明寺」(鎌倉市材木座6-17)
JR鎌倉駅前から小坪経由新逗子駅行きのバスに乗り、光明寺で降ります。光明寺は第四代執権・北条経時が、仁治元年(1240)に然阿良忠を開山として佐助ヶ谷に建てた蓮華寺を、寛元1年(1243)に現在の地に移して光明寺と改めたのがはじまりといわれます。江戸時代には浄土宗学問所として、関東十八檀林(有名な学問所)第一位として大いに栄えました。鎌倉三十三観音第18番、鎌倉二十四地蔵第22番。

○「小坪峠(小坪合戦地)」(小坪6丁目)
光明寺の裏手から小坪坂を上ると「小坪峠」です。治承4年(1180)の源頼朝の挙兵に際し、当時三浦半島に勢力を持っていた三浦氏の三浦義明、義澄親子は源氏方に付きますが、緒戦の石橋山の戦いには大雨のために合流できず、三浦に引き返すところ平家方の畠山重忠と遭遇し、8月24日この地で合戦となりました。畠山勢が由比ヶ浜に、三浦勢が小坪峠に陣を敷いたこの合戦を、小坪合戦または小壺坂合戦といいます。

○「住吉神社」(小坪5-12)
尾根通しに南西に向かうと「住吉神社」があります。南北朝時代に創建され、後に正覚寺の鎮守となったとされています。中世に建てられた山城である住吉城郭跡に祀られた神社で、住吉明神社と呼ばれていました。祭神は、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)。
【住吉城址】
住吉神社社殿前には「住吉城址」の看板があります。この一帯は住吉城址でした。『新編相模国風土記稿』には、「住吉明神社 寺後山上に在り神体は故ありて曩に鶴岡の末社に移し、当社には今白幣を神体とし本地仏聖観音を安ず、小名飯島の鎮守なり、古は郡中の総鎮守なりしと云ふ、此地三浦道寸の城跡なり」とあります。北条早雲が西相模の要衝小田原城を手に入れた後、永正7年(1510)早雲の軍は、権現山城(横浜市神奈川区)において、山内・扇谷両上杉の連合軍によって大敗北を喫し、早雲は両上杉の壁の厚さを思い知らされました。そこで、早雲は両上杉を直接相手にしたのでは勝目はないと判断し、扇谷上杉の重臣で、相模国中央部から東部にかけて勢力を持つ三浦氏の討滅に的を絞りました。永正9年(1512)8月、早雲の軍勢は、三浦氏の本拠・岡崎城を急襲しました。時の当主・三浦道寸(義同)はついに支えきれず、この住吉城に逃れました。奮戦むなし、ここ住吉城でも戦いに敗れ、新井城 (三浦市)に逃れました。この時、道寸の弟・道香は、逗子の延命寺境内で、家来たちと自害したと伝えられます。永正13年(1516)、三浦の新井城も早雲によって攻められ三浦一族は滅亡しました。

○「正覚寺」(小坪5-12)
住吉神社から下ると「正覚寺」があります。仁治元年(1240)、浄土宗三祖記主禅師然阿良忠上人が住吉谷に良忠院悟真寺を開山しました。後に、然阿良忠上人は光明寺の前身蓮華寺を開創しました。永正9年(1512)小田原北条早雲が住吉城に三浦道寸を攻め、住吉城郭内にあった良忠院悟真寺はその兵火で焼失しました。天文10年(1541)中興開山の光明寺十八世真蓮社快誉上人が再興し、正覚寺と改称しました。
【正覚寺下の庚申塔】
正覚寺の境内に上る階段脇、逗子市営プール跡の上の通路端、プールのフェンスの前にあります。石塔が6基ありますが、1基は馬頭観音で残り5基が庚申塔です。

○「海前寺」(小坪5-10)
逗子マリーナを南東に向かうと「海前寺」があります。永和2年(1376)、小坪漁民の為の念仏道場として厳阿上人によって開山した古刹です。本尊は木造阿弥陀三尊立像(南北朝時代作)。海前寺の前の小路が古東海道になります。
【海前寺下の庚申塔】
海前寺の境内に登る最後の階段の手前を左奥に入った、民家の裏の山の中腹に石塔類が20数基あり、二十三夜塔1基、馬頭観音塔1基、念仏塔1基、庚申塔10基その他不明な塔が10数基あります。

○「子の神社の庚申塔」(小坪4-21)
さらに歩くと「子の神社」があります。鳥居右に、道祖神塔などと一緒に1基の庚申塔があります。

○「小坪寺」(小坪5-4)
子の神社の道路反対側に「小坪寺」があります。明治40年に報身院から出火した火事で隣接する香蔵寺も焼失しました。翌年、円覚寺の塔頭を譲り受け本堂として香蔵寺跡へ移築しました。明治42年に、行念上人が鎌倉光明寺の末寺であったこの両寺院を合併し、小坪寺として再興・創建しました。香蔵寺の本尊阿弥陀如来像は焼失を免れたが、破損が激しかったため、現在の本尊は後に東京芝の清光寺から寄付されたものです。

○「須賀神社」(小坪6-6)
さらに東に向かうと、地蔵堂の先に「須賀神社」があります。小坪の総鎮守で、小坪天王社、鷺浦神社ともいい、地元では鷺浦社とも呼ばれています。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。『逗子町誌』(昭和3年刊)には、「天王社 牛頭天王を祀る、子の神の西隣小坪駐在所の東にあり、古来鷺浦神社、須賀神社とも称す、例祭は7月15日にして各町順番に御輿を担ぎ小坪第一の賑わいなり、特に33年毎に一色森山神社に御輿を担ぎ行く遺風あり」とあります。この33年毎のお祭りは、須賀神社の男神素戔嗚尊が葉山町の森山神社の女神櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)に会いに出向くという祭です。次回の予定は平成40年(2028年)です。
【須賀神社下の庚申塔】
須賀神社下から、少し東寄りの崖下の祠の中に石塔が14基あり、馬頭観音1基、墓石1基、個人供養塔1基、不明1基、庚申塔10基で前後各5基ずつ二列に置かれています。

○「仏乗院」(小坪4-27)
小坪漁港まで戻り南に向かうと「仏乗院」があります。宝永2年(1705)の創建で、江戸末期には後に浪子不動と呼ばれる高養寺を末寺としていました。本尊木造阿弥陀如来立像は上品下生の来迎印を結び、胸部内側の墨書銘から永正10年(1513)に修理され、また、胎内に納められた二通の文書から宝永2年(1705)と安永4年(1775)にも修理されたことが分かっています。
【仏乗院の庚申塔】
仏乗院の本堂横、諏訪神社(元宮)参道側には庚申塔などを集めた庚申塚があります。石塔が4基あり、うち2基は庚申塔と確認できます。

○「天照大神宮」(小坪4-20)
少し戻って小坪漁港の奥の集落から長い階段を上ると、小坪漁港を見おろす高台に「天照大神宮」(てんしょうだいじんじゃ)があります。御祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)。
【天照大神宮下の庚申塔】
境内に登る階段の右に、神社の名碑と並んで1基の庚申塔があります。

○「諏訪神社」(小坪4-19)
披露山庭園団地を南に向かうと、大崎公園入口の手前に「諏訪神社」があります。『逗子町誌』には、「諏訪社 南町の鎮守なり、中腹にありしも震災にて全壊境内を失いたるを舊以て位置には小社を建て、本殿は遥か山上高燥の地に勧請す、荘厳なる中宮は以前のものなり。」とあります。
【道祖神】
境内に双体道祖神があります。

○「大崎公園」(小坪4-739)
披露山庭園住宅の奥の突き出した岬の上に「大崎公園」があります。遊歩道とベンチしかない簡単な公園ですが、この公園からは江ノ島や富士山を眺望でき、 逗子マリーナ・小坪港を見下ろすことができます。一番奥に一段高い展望台があり、葉山の山々や葉山マリーナも見降ろすことができ、東屋の横には兎のモニュメントに刻まれた泉鏡花文学碑があります。

○「披露山神社 (山之神社)」(新宿5-4)
披露山庭園住宅まで戻り、住宅地を東に横切って披露山公園に向かうと、公園駐車場手前に「披露山神社」(山之神社)があります。元は名主高橋家宅に祭祀されていましたが、安政5年(1854)伏見稲荷大社より分霊を受け二神が合祀されたものです。一般には披露山神社と呼ばれますが、平成7年銘の「再建工事寄附者御芳名」には披露山之神社、立てられている幟には「披露山山之神社」と記載されており、元々は「山之神社」と呼ばれていました。祭神は大山祗神と稲荷大明神。
【古東海道(七曲り)】
八幡宮裏から上ってくる古東海道は、披露山庭園住宅の開発で失われましたが、披露山神社参道(七曲り)に続く窪地として残っているのが、その古道跡になります。
【観音堂】(新宿4-8)
披露山神社の道路を挟んで「観音堂」があります。『逗子町誌』には、「観音堂 披露臺三叉路にあり、運慶の作になる木造を安置せるも、明治十五年盗難にあひて今其の厨子を存す、後鎌倉光明寺より観音を請じ来りしも是亦紛失して今は石の像を置く。」とあり、そして改訂版(昭和49年10月発行)では注記に、「先頃まであった石造十一面観音像は大正四年二月造立。城氏子中、石工杉山宗吉の刻銘あり、最近盗難にあう。」と木造観音像、石造観音像が次々と紛失、盗難に遭ったことが記されています。観音堂の前の道が、披露山神社から続く古東海道(七曲り)のようです。明治、大正、昭和にかけて軍の施設や宅地造成などのため、近在の庚申塔などが集められ、最近まで観音堂の前に並んで立てられていました。

○「披露山公園」(新宿5-4)
披露山の山頂に「披露山公園」は、その展望の良さからもおすすめの公園です。公園内の展望台からは、西側に逗子マリーナ、江ノ島、相模湾そして天気が良ければ雄大な富士山も一望できます。また、南側には葉山マリーナと三浦半島の雄大な自然が見渡せる最高のロケーションにあります。公園内には、猿やくじゃく・うさぎ・ニワトリなどの小動物もいて、家族連れにも人気です。展望台近くにある説明版に次のように書かれています。
《披露(ヒロ)の地名は、鎌倉幕府がその威光を示す為に献上された貢物を時の諸将に披露した地であったとの由緒に基づくと伝えられている。一説には幕府高官の四季の宴が催された地と伝えられている。》
【尾崎行雄記念碑(披露山公園駐車場)】
披露山公園の駐車場には、「尾崎行雄記念碑」が建てられています。尾崎行雄は、「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれており、記念碑には「人生の本舞台は将来にあり」と刻まれています。尾崎行雄は昭和2年70歳のとき、この碑の直ぐ下に「風雲閣」と名づけて居を構えました。終戦直後には、日本の進むべき道について、教えを請う人たちで溢れたそうである。昭和29年10月に、この地で95歳の天寿を全うしました。
【旧石原慎太郎宅】
駐車場の先からハイキング道を下ると、古東海道(七曲り)の下、新宿稲荷社の北側に「旧石原慎太郎宅」がありました。

○「新宿稲荷社」(新宿5-1)
厨子開成高校の西約400mに「新宿稲荷社」があります。約400余年前徳川初期に鎮座されたと伝わります。正一位新宿稲荷大明神と尊称され、新宿の鎮守として産業振興・商売繁盛・安産育児の守護・庶民の財産生命生活安定の神と崇められています。三間程の岩窟の中に奉安されていましたが、昭和32年現在の社殿が建立されました。殿内は岩窟の中に造られています。
【新宿稲荷社の庚申塔】
鳥居の脇に2基の庚申塔があります。

○「高養寺 (浪子不動)」(新宿5-5)
逗子湾沿いの海岸通りを西に向かうと、「高養寺」(浪子不動)があります。寺伝によると、弘法大師が開山、岩窟内に2尺余の不動尊像を安置したのが寺(不動堂)の起こりであると説いています。本尊は不動明王。伝承によると、昔、この地の岩窟のわきに大きな滝があったことから「瀧の澤」という地名が付けられたといいます。浪切不動という名は、この不動尊が小坪の漁舟を暴風雨から護ったことに由来します。700年程前、このあたりは東小坪の浜の一角で、夜な夜な山腹の滝の付近から不思議な光が発せられ、不漁になり困惑した漁師を見ていた僧が、草に埋もれた不動明王を発見しました。小堂を建立してお祀りし漁場は活気を取り戻したことから、漁師の海上安全、豊漁祈願のお不動さまとして信仰を集めています。昭和の初期、関西画壇の一人・黒住章堂が出家入道し葉山慶増院に入り、時の首相高橋是清と犬養毅の援助を受けて本堂を建立し、堂内の天井画と襖絵を描きました。寺名も後援者のそれぞれ一字をとり高養寺と改めました。
【浪子不動】
徳冨蘆花の小説「不如帰(ほととぎす)」の舞台となり、主人公の片岡浪子にあやかり、いつしか「浪子不動」と呼ばれるようになりました。「不如帰」は、明治31年から明治32年にかけて国民新聞に連載されました。次が小説のヒロイン片岡浪子の名セリフです。
「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」
【さくら貝の歌の歌碑】
お寺の前には「さくら貝の歌」歌碑があります。「さくら貝の歌」の作者土屋花情氏は、逗子の浜辺から詩想を得て創作しました。
【不如帰の碑】
国道を挟んだ海側には「不如帰の碑」が建っています。この碑は昭和8年に建てられ、碑字は蘆花の兄徳富蘇峰の筆。礎石の下にはこの小説を書いた時の、筆とすずりが納められているとか。見た感じは信じられないのですが、干潮時には歩いて行けるそうです。

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