バスから見たハバナの自然風景
地平線まで同じ景色がつながっていると、かつて見た2007年のケニヤを
思い出す。長い間バスに乗っても、窓から見る自然はほとんど変わらない。
隣と隔てるための高い塀と金網、それが無い。
無から金を生み出す、これから平野に繰り広げられるだろう「広告の山」。
その風景に慣らされてきた私たちにとって、見たことのない風景。
キューバにやってきて、2007年のケニヤよりさらに古い原風景を眺めた。
広告が見られない。
建物に色がない、鮮やかに彩られていない。
水や電気の獲りあい。自然を加工するため、奪い合いをすることもない。
500ccの飲み水、50リットルのタンク、100リットル・タンクと
「貯めておく水」「資源の水」を増やし貯めておくこともない。
古くから水は、人間が生まれたときの禍の種だった。
その水が、人の欲望を駆り立てていく。
市井にあふれているadvertizingは、人の心をかき乱した。
常に欲望を、人々に植えつけた。
小さな建物、倉庫のようなたたずまい。
それでも貧富の差はないと思い込みたい。
地域では、しあわせに暮らしていると信じたい。
新聞やテレビ情報は、みんなに行き渡っているだろうか。
その流れが、一斉に変わるかもしれない。
アメリカとの国交が始まっていく。
最後の見納めだろうか、変わってほしくない” 自然の風景 ” 。
ログインしてコメントを確認・投稿する