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2015年04月03日08:05

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言語の欠陥

小学生の時、教科書に太宰治の「走れメロス」が載っていました。私はこれを読んでも少しも感動せず、単純な男だなあ、と思っただけでした。しかし、文章で気になる個所がありました。
「メロスは走りながら好きな歌を歌った。」
どうでしょうかこの文章、二通りに解釈できませんか?メロスは歌全般が好きで、いろいろな歌を次から次に歌った、というのと、「Let It Go」なり「ようかい体操第一」なり「炭坑節」なり、特定な歌が好きで、その歌を歌った、というのと、どちらにも解釈できないでしょうか。私はそのことが気になってなりませんでした。こだわりの強い性格ほ、当時からだったのですね。

おそらくこれは、日本語という言語の欠陥に起因するものだと思われます。短歌や俳句に見るように、日本語はどの外国語も真似できない微妙な表現ができる言葉なのですが、こんな重要なことが曖昧になってしまうのです。西洋語にあるような名詞の単数形と複数形、定冠詞と不定冠詞がないために起きることでしょう。英語やドイツ語なら、上記のいずれであるかはっきり表現できます。

では日本語でこれを明確にするにはどうしたら良いか、まず二通りのうちの前者のことが言いたいなら
「メロスは歌が好きなので、走りながらいろいろな歌を歌った。」
後者であれば
「メロスは走りながら、好きなある歌を歌った。」
どちらもすっきりしません。解説的になってしまいます。

川口マーン恵美さんは、日本語の名詞に複数形がないのは別に不便ではない、と言われていますが、上記のようなことを考えると、やっぱり不便だと思うのです。私はヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「オーストリアの村ツバメ」が好きですが、昔から何となくこの「ツバメ」は単数だという気がしていました。いつもやって来る特定のツバメをモチーフにしているのかと・・・。でも原題は"Dorfschwarben aus Österreich"であることを、ずっと後になって知りました。複数なんですね。

悪文として有名なのは、日本国憲法の前文です。「我等は、」と始まり、何やかや何やかや何やかや・・・と続いて、最初の「我等」はどうなったのだろうと思っているうちに最後になってようやく「信ずる。」とくる。日本語を学ぶ外国人を悩ませていることでしょう。英語なら"We beliebe..."で明白です。

最後に最近見た次の文章について考えてみてください。
「あまりにも一面的な彼に対する彼女の反応」
一面的なのは彼?それとも彼女?
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