今夜中の3時半。ヤンゴンとここは1時間半の時差がある。ヤンゴンでは朝6時はもう明るく路上カフェ(?)もオープンする。そこへ時々行ってた、チャイを飲みに。ここは朝7時でも薄暗い。チャイナタウンは閉まるのも早い。着いた時、開けてる店はないし人通りも
飛行機が遅れKLにバスが着いたのは午前2時。ヤンゴン・ボケしてるんで宿の住所は控えてたが地図を見てなかった。迷いに迷い着いたのが午前3時。ところが係(すごいいいヤツ)がおれの予約を知らないしおれの送ったメールも見てない。バングラディッシュから
ガテマラは21家族によってコントロールされてる、と聞いたことがある。桁外れの金持ちの話をしてた時。ま、ありそうやなと思った。昨日だったか以下のツイートがあった。Rica(信夫梨花) @Rica_author 17時間前父の死に伴い、25歳のヒュー・グロブナーが
もう1度竹山の回顧談 竹山にとって重要だったのは、日本兵と敵兵が共通の歌を歌うことによって、戦闘が回避されると言うシチュエーションだった。竹山は、最初、中国の奥地の県城を物語の舞台として設定しようとしたが、どう考えても、日本人と中国人が共通
竹内好や梅棹忠夫の批判は直接全部見たわけではない。が、市川崑にしても反戦を軸にしていると言ってる。おれの子供の時に見た印象には、反戦なんて希薄だ。それより純粋行為ちゅうか自分に得にならない事をやる水島に憧憬し泣いた。友達もそうだった。戦争は
この文章をネットで見た時、視覚的にとても読めない、と感じた。こんな横にに長いの行替えで次を探すのが難しい。でも、読んでるうちに少し慣れた。ここに出てくる方の名前は初めての人ばかり。thinkpodさんの本名も分かった。登場順に言うと上野瞭さん 児
ビルマの竪琴批判があることはかすかに記憶があった。ケペルと言うネット氏は 加害者責任を直視していない、戦争を感傷的にとらえ、軍国主義への反省はするが、侵略や戦争犯罪のことは忘れて、日本人の死者への鎮魂だけにとどまっている、つまり反戦文学とし
で,thinkpod氏は、ビルマの竪琴をミャンマーの人々に見せることはできないだろうかと考えた。以下。 ビデオを抱えてミャンマーへ ミャンマーの人々は映画「ビルマの竪琴」をどのように観るのだろうか。そんな疑問を抱いているとき、絶好の機会がめぐってきた
1956年に安井昌司主演(おれは水島道太郎だと思ってた)監督市川崑で映画化された。見た。で、1985年に同監督、中井貴一主演で再映画化されている。これは見てない。最初のがインプットされてるのでイメージが壊れそうだし、中井貴一が苦手だったし。
ちょっとネットでビルマの竪琴に当ってみた。いやはやなんとも。確か小学校4,5年生の時に読んだと思う。赤い表紙の記憶があるんだが、探してもネットにはなかった。ウイキペディアによるあらすじは以下。 1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日
4番目のゲストハウスのエレベーター係は月給100ドルと言ってた。英語も出来る。人は香港のヤツより1000倍いい。生地屋の話でも平均月収は1万くらいらしい。だがどの通りも夜中車が道に縦に駐車されている。タクシーはいっぱい。渋滞はひどいもんだ。
フライトはPM7.30発。8Fの談話室(?)に居る。ヤンゴンのゲストハウスはどこも24時間エアコンがまわっている。ここもさっきまで17度。今、おれが25度に変えた。寒くて!昨日の夜あまりに寒いんでフードつきのパーカー(?)を着ていたんだが、部
3番目のGHに戻った。朝食。中国の女の子とニューデリーからの青年。女の子が7日にチェンマイに行くと言うのでGHを教える。ノートを開いて1軒教えると画面をスマホ(?)で撮る。もうノートを持ってるのはごくわずか。中国人が多い2軒目を説明してると、もう
ある人から『歩くのは大丈夫なのか?』と聞かれた。ちょっとオーバーに書きすぎたのか。OK。今日は背中の痛みはない。だがノチコチして自然さがない。足を曲げると太腿が突っ張る。メルシンでは血液検査はなかったが医者が言うように膠原病におそらく関係して
今から4番目のGHに移る。ここには4日後舞い戻る。3日前39丁目より上のエリアを散策し、いいGHを見たんだが4Fにある。階段が大変。あきらめた。昨日路上の焼きもつ屋で日本語がうまいミャンマー人と話した。2年間東京にいたそうで、これがまた親切なやつ。
バルコニーの向こうにいた64歳のNYC男とスウェーデンからの若いのが来た。NYC男がヒラリーが不正蓄財してたとか悪口をしゃべりまくる。トランプは問題外。年寄りでもいるんだなNYCは。ホント彼らはアメリカがいかに発言自由かのプロモーション・マンになっ
8Fのバルコニーに係がテーブルを出してくれてサンセットを眺めてる。ミャンマー・ビールと近所で買ってきたお惣菜。パリからの1992年生まれと仲間が一緒。ここのオーナーはホテル、ビジネス・ホテルとここを持ってるそうだ。手伝いの親戚の気のいい男が言っ
ミャンマーへ来ようと思ったキッカケは香港で会った韓国の青年が『とにかく人がいい』と大激賞したから。おれは、人がいい、てのに弱い。ビザも28日しか呉れないしお金を取る。なんかなあ、と思ってた。が、来てみての感想は青年の言うとおりだった。GHの受付
昔、シュガーベイブというバンドがあり『ダウンタウンへ繰りだそう』という曲があった。それが確か『ひょうきん族』という人気TV番組で使われたと覚えてる。もうおれでもうろ覚え。若い人は知らんだろ。で、ダウンタウンとはどおゆう意味か?という論争(?)
2日前、SAKURA・TOWER(NHKや朝日、ソニーなどが入ってる)の20Fのレストランに行った。びっくり。ヤンゴン川の向こうはグリーン・ベルトだが、こっち側は180度にわたってはるか向こうまでビル群が広がってる。その中に建築中のビルがいっぱい見える。東京
あと1時間で3軒目のGHに移る。今居るとこはコロニアル調でアウンサン・スーチンさんのお父さんの大きな写真が額に入れられて飾られている。使われてる素材も素人目にも、違う、と感じさせられる。こんな豪華(?)なGHは初めて。日本円で1500円くら
ヒマなんで(ま、いつでもヒマなんだが)2名の心配(?)に答えておこう。これは忘れんとは思うが。11年前、両足首なんかが痛み形成外科へ行った。10ヶ月経っても痛みはひどくなるばかり。思い余って名前にひかれペインクリニックへ行った。血液検査され
例によってGH情報をちょっと調べただけでミャンマーのこと何も知らないで来た。ミャンマーは今雨季。初日の夜見た白人は3人だけ。その後もチラホラ。雨は午後2時間くらい降る。強いシャワーはまだ1回のみ。でも観光する人には苦痛だろう。が、ノー観光の
1度旧市街のかなり外にある日本人経営の焼肉ホルモン料理屋へ行った。向かいが同じ経営のオープン居酒屋。なんと12.3人の日本老人がいる。男ばかり。やっぱ入って行けなかった。これがおれの限界。その回りに日本語のアパート・レントの広告塔がある。な
飛行機出発1時間前なのに待ってる客は7人。閑散としている。地方空港でも、もっと人がいると思うけんどな。ビザも中2日で交付された。初めてもミャンマー。やっぱビルマの方に馴染みがある。チェンマイ最後の3日。初日は最初のGH。イギリスのプログラマ
通いが10日、宿泊で9日温泉につかった。パイは湯治だった。山の中の高原で広い敷地に68のコテージがある。レストランは1こだけ。2段ベッドが3台は入るスペースにWベッドとシングル。ファミリー向け。朝湯、夜中湯。別府の再現を期待して。 パイに着
ゆるやかな街。ベジタリアンの店が多いし、はだしドレッドも多い。ミドル・クラスからの逃亡者(?)風もよく見る。今は雨季(ちょこっと降る。気持ちいい)なので一般の観光客はいない。書こうと思ってるのに書いてない。今日、街から8キロ離れたリゾート温
あと1時間でパーイへ向かう。4時間。山道は悪路で曲がりくねってるらしい。商業化されたという評判が多いが、写真を見てけっこう期待している。4人、平台のドミでこの1週間あとの3人は女の子が続いている。昨日はスペイン2人になんと日本人。古いタイプ
もう20日も経ってるのか。その割にチェンマイのこと、解っていない。3日前、ジャグジーを求めて旧市街東外にある高級ホテルへ行った。その道なりにいっぱいBARがあり白人老人がいっぱい。横丁へ入ると、BARのスーパーマーケット(デカイ)が2軒並ん