「飯隈山飯福寺」は最盛期には28もの僧坊があり、私こと「あやしい分析屋」の祖先は「救仁郷朝元」から5代後の第41世「救仁郷朝幸」の三男、「救仁郷朝昭」から始まる「中之坊」と言う僧坊の家系と聞いています。「飯隈山飯福寺」跡から北西に400m程の所に
「救仁郷朝元」が出家して第36世別当となった「飯隈山飯福寺」は天台宗本山派修験の総本山聖護院(修験道)の末寺。この寺の別当(院号「蓮光院」)は国内28正先達家の一つで、九州五ヶ国法頭かつ三州の年行司職を兼ねるという、聖護院系の修験の道では無
次に「救仁郷」氏が記録として出てくるのは、建武元年(1334)の『薩藩旧記』で、「救仁郷源太、同郷弁済使宗頼一類」という人物が記載されています。この源太というのは、源氏の流れを組む家の長男と言う意味で、この頃には源氏であることを公称(私称?)して
突々ではありますが、私、あやしい分析屋の名字は「救仁郷」であります。かなり希有な名字であり、九州鹿児島は大隅半島の付け根、宮崎よりの日向灘に面した地域が祖先の地であり、我が家は明治維新の際に東京に残った家系であることは言い伝えられてきました