平等のようなグループのなかで、自覚表現したものが、抵抗を受けるだろうか。自覚させられた多人数が、自覚していない少人数に抵抗を加えるだろうか。
幸せになるよう、悪意を見せるかもしれない。こういうことを知っている悪者は、どういう雰囲気だろうか。呪術というのは、幸せに、豊かになるような祈祷ではないかとも、思うのである。温度計のマイナスの表示が、目に見えることが不思議だ。こういう表示で、
安全に、自分の身体のどこか、押してみる。だんだん強く押してみる。痛くなってくる。そしたら、痛くない方向に、身体を動かしてみる。押している方向に身体を動かしてみる。押す前に動いてみる。避けたような感じになる。その動きを活かしたら、と考える。
幼い頃は、いつも祝日のようだろうか。大人になってからの祝日は、休暇だけだろうか。少なからず、主観的に、特別扱いできるのは、家族内と少人数であろうか。家族内で、社交辞令のような振る舞いは、そのしあわせのような日時を、奪いさってしまうように、代
前進するとき、どちらかの足が後ろになる。後ろになった足を前足に直線にあわせる、上半身の向きもあわせれば、横を素早くむける。前足を後ろに足と直線にあわせ、上半身も向きをあわせれば、向きが違うが、横向きになれる。それにともない手は、横振りが速そ
お尻の骨、座骨だと思うけど、前に回すイメージで歩くと、早く歩けるような気がする。腰も左右交互に、前に出すように、歩くと、さらに速く歩けるような気がする。
会社の待遇を利用できなかった理由は、何だったのだろう。仕事を辞めたら、利用できる制度みたいなのも、雇用保険くらいしか思えなかった。
身体の型というのは、動体というべきであろうか。たとえば、素早く手を伸ばすとき、手が重いので、肘を少し傾けた瞬間、重さを感じない瞬間、素早く伸ばせると思う。重くても、素早く伸ばせると思っても、変わらないかもしれない。
足のひらの方向を固定して、膝を内側か外側に向けて、歩くと、筋が絞られるような感じがもしたりするので、考えながら歩くと、効果的な気もする。
自分自身の気付いたことは、この世界にあるだろうか。気付いたことから、利用できる物事があれば、扱いやすく便利でもあり、容易にも不都合な改善の提案もできるだろう。気付いたことは、自分自身、他者においても、すべて完璧に、再現されている理想ではない
自分自身の個性は他人の個性とともにした記憶でもあるだろうか。だとしたら、つながるコントロール範囲を共有すべきだろうか。記憶は生き物と思うとしたら、生き物の特性を備えることができるだろうか。充実した記憶は、捕食目的以外にどのような理想を持ち、
経験をしないで、よりよく変化することを求めているかもしれない。それは、意識しないで、変化していく身体のような錯覚のようであろうか。
人の住む環境を、自然と思えないのが、以外と負担になる。そのなかで、人の行為も自然(辞書には人も含めてと書いてある)と思えるならば、許せることも多いかもしれない。自然現象については、死に対しても許してしまうほどだろう。とするならば、淘汰につい