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2015年02月15日23:51

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宿毛・中村紀行11 小野梓記念公園 / 宿毛貝塚

 5日木曜日は、臨済宗東福寺派南泉山東福院に参拝した後も宿毛市街地の史跡巡りを続けました。
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 後藤環爾(ゴトウカンジ;1871〜1936)邸跡です。
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 環爾は宿毛の浄土真宗本願寺派清宝寺の住職でしたが、林有造の門人となって幅広い学問を身に付けました。日露戦争に際しては乃木希典伯爵大将麾下の第3軍司令部付従軍布教僧となって旅順攻防戦で戦死した将兵の菩提を弔っています。大正時代には本願寺派東京出張所長として東京築地本願寺別院に入り、大正12(1923)年の関東大震災で灰燼に帰した同別院を3年後に再建する事に成功しました。その手腕が評価されて、昭和4(1929)年に西本願寺執行長に就任、武蔵野女子大学の前身である千代田高女や武蔵野女子学園を創設した事でも知られます。
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 小野梓(オノアズサ;1852〜86)誕生地です。
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 梓は、宿毛領の軽輩で土佐勤王党メンバーでもあった小野節吉の息子として生まれ、9歳の時に酒井南嶺の門下に入りますが勉強嫌いで怠けてばかりいました。しかし、文久3(1863)年に設けられた郷学たる文館に入学すると、一念発起して勉学に励むようになり、慶応3(1867)年に文館が日新館に改められる頃には学校一の俊英と見做されるに至りました。
 17歳で戊辰戦争に従軍後、明治4(1871)年から三年間に亙って米英両国に留学して法学や経済学を学び、帰国後は司法省に出仕しますが、やがて大隈重信の知己を得てその側近となり、明治14(1881)年の政変で大隈が失脚すると共に下野、明治15(1882)年3月の立憲改進党結成に際しては最高幹部となります。続いて同年10月に早稲田大学の前身である東京専門学校が設立されると、重信の養子秀麿を名目上の校長としながら、梓が事実上の学校運営責任者となりました。こうして、政治家としても教育者としても期待されていた逸材でしたが、肺結核のため35歳で早逝してしまいました。
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 酒井南嶺(1828〜1881)邸跡です。
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 南嶺は宿毛領家臣酒井栄(永)三郎の次男として生まれ、幼少の頃から学を好みんで天才と言われました。少壮の頃、江戸の佐藤一斎・大阪の後藤松陰・京都の岩垣月州等に師事して帰り、文久3(1863)年に宿毛の郷校文館の助教役となって、慶応元(1865)年には私塾望美楼(望美堂)も開いています。次いで慶応3(1867)年に日新館が設けられると教授役に進み、明治3(1870)年には土佐藩の準大得業生に挙げられて高知城下で教鞭を取る事となりました。岩村通俊・竹内綱・大江卓・小野梓等、明治時代に活躍した宿毛出身者の多くは南嶺の薫陶を受けた面々でした。しかし、廃藩置県後は不遇な晩年を送ったようです。
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 酒井融(1840〜1920)邸跡です。
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 融は、宿毛領家臣酒井俊拙の子として生まれ、宿毛領御典医羽田文友に医学を学んで、戊辰戦争には軍医として従軍しましたが、帝國陸軍創設後は主計将校となりました。明治10(1877)年の西南戦争に際しては熊本鎮台司令長官谷干城少将(土佐藩出身)の下で主計主任となっており、薩摩軍包囲下の熊本城に於いて糧秣が底をつく中、巧みに遣り繰りして一人の餓死者も出さずに済ませる大功を立てています。
 その後、主計中佐で軍を退役し、会計検査院検査官を経て故郷で隠棲していましたが、明治27(1894)年に日清戦争が勃発すると、谷干城子爵中将の推挙で野津道貫子爵中将麾下の第1軍糧廠部長に抜擢されました。軍糧廠部長は少将相当官のため、少将待遇となって出征し、見事な兵站管理を行った事で知られました。
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 箸拳発祥の地です。箸拳とは宴席の座興として行われるもので、2人が相対して3本ずつの赤箸を前面に突き出し、箸の合計本数(自分のものと相手のもの)を威勢よくリズミカルな調子で当てる競技です。これを土佐では「箸拳をうつ」と言います。嘉永2(1849)年頃、宿毛に宿泊した九州の船頭連中から薩摩拳が伝えられたのが始まりとされています。
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 小野梓邸跡に設けられた小野梓記念公園です。小野梓生誕150周年を記念して、早稲田大学が梓邸跡を買い上げ、公園化して宿毛市に寄贈した物で、平成15(2003)年に開設されました。
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 宿毛出身でで早稲田大学理工学部を創設した竹内明太郎《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1938707381&owner_id=250900》の胸像もあります。
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 こちらは宿毛出身で、明治・大正時代を代表する出版社である冨山房(フザンボウ)を創設した坂本嘉治馬(サカモトカジマ;1866〜1938)の胸像です。
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 中村重遠(1840〜84)邸跡です。
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 中村進一郎重遠は、宿毛領家臣小野弥源次の子として生まれ、中村儀平の養子となりました。戊辰戦争で勲功を挙げた後、帝國陸軍に奉職、佐賀の乱や西南戦争の鎮圧に従い、工兵大佐に至りましたが、明治11(1878)年に荒廃していた兵庫県姫路城の修復と保存を陸軍卿山縣有朋中将に具申、認可を受けました。即ち、彼の具申が無ければ、国宝・UNESCO世界文化遺産の姫路城天守閣は破却されていたかもしれないのです。
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 土佐―伊予街道の宿毛一里塚跡です。
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 さて、宿毛市街地の西北にある願成寺山(ガンジョウジヤマ)の山麓にある小高い台地上には宿毛貝塚〔史跡〕があります。

 縄文時代中期(約4000年前)〜後期(約3000年前)の貝塚で、縄文土器・石器・獣骨・魚骨・貝類等が出土しています。その存在は古くから知られ、『長宗我部地検帳』には、「カイツカ拾代」とあって、「貝塚」が今も地名になっています。
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 明治24(1891)年に、郷土史家寺石正路(テライシマサミチ)によって初めて学術的に紹介され、それ以来四国西南部に所在する縄文貝塚として、全国的にも有名となりました。
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 昭和24(1949)年には、高知県教育委員会によって発掘調査が行われて、東と西の貝塚を持つ四国で最大規模の貝塚である事が確認され、東貝塚からは縄文人骨が発見されています。東貝塚と西貝塚は約60m離れた場所にあり、住居址等は未発見ですが、周辺に形成されていたと推定されています。
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 西貝塚については昭和53(1978)年に公有化され、昭和61(1986)年から翌年にかけて史跡保存修理工事が実施され、整備が図られました。
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 現在は海岸線からかなり離れた内陸部に位置していますが、縄文海進の時期にはここが海岸線だったのです。
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《続く》
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