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急行列車コミュの〔だいせん〕

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コメント(38)

かつて、急行<だいせん1号>益田ゆきに乗ったことがあります。新大阪→城崎間だけですが、4時間ほどかかった記憶があり、車中で駅弁も食べましたw
13時ごろに下車となりましたが、益田まで〜☆
ちょっと想像がつかなかったですね。
私は寝台便に二回乗った事はあるんですが、昼行便に乗った事は無いまま終わってしまいました。
私が乗ったことあるのは、夜行で20系の座席車でした。
倉吉までが急行で倉吉からは快速なりました。
としさん
これは、A寝台車の座席車扱いのような車両ではなかったでしょうか?
乗りたいとは思っていましたが、乗ったときは12系化されていました。
学生のころ,鉄道好きばかりではない集団で米子へ行く用事があり,
「白兎」だと京都発が午後で,米子の到着が夜遅くになるので,
大阪から昼行の「だいせん」に乗ったことがあります.
すでに「新幹線+やくも」というチョイスもあったのですが,
かなりの出費になるのと,私が山陰線まわりで行きたかったのとで,
独断で決めたように思います.
大阪発は9時台でしたが,米子に着いたのは16時台だったはずです.
山陰線の城崎から先は初めて,餘部鉄橋を渡ったのもこの時だけで,
私にとっては貴重な思い出なのですが,
同行者には,ちょっと悪いことをしたのかも知れません.
ブルースカイさん
>これは、A寝台車の座席車扱いのような車両ではなかったでしょうか?
ナロネ21改造のナハ21では?
(ナハ21はJRになる前には引退していたと思います)
かみ〜さん
ありがとうございます。
私が乗ったのは1986年でした。
すでに12系になっておりました。
私が生まれて初めて乗った寝台は、急行だいせんの寝台です。
キハ65に変わる前の1998年だったかな。
私は学生で、なけなしのお金で¥6300の寝台券を買いました。
初めて寝台車に乗り込み、
おおーっ!この寝台スペースを自分ひとりで独占できるのか!
と思ってうれしくなりました。
窓の外を見ると大阪駅の通勤客が列をなして
次の列車を待っている姿が見える。
それとは裏腹にこの寝台車内はまったりとした空気が流れる。
私はひょっとしたら選ばれた特別な乗客なんじゃないかと
錯覚して、優越感に浸っていました。
今は大阪駅にいるけど朝起きたら出雲市に着いてるんだなぁと
思うと、旅のロマンのようなものを感じて
その晩はぜんぜん寝れませんでした。
うれしくて、うれしくて。子どもみたいだと自嘲しながら…。

私に初めての寝台の空気を味わわせてくれた〔だいせん〕。
その廃止が名残惜しくて、ついに廃止になるという最後の晩、
急行〔だいせん〕に乗って旅に出ました。
福知山線内で線路内にいたシカに衝突していましたが
米子には定時で着きました。最後までよく走ったねと
ねぎらいたい気持ちでした。
てるてるさん
そのお気持ち、よくわかりますよ。
あの寝台車の空間は別世界ですね☆
とくに、座席車と寝台車が混結された編成の場合、かなり優越感がわくように思います。私はかつての<はやたま>で逆の立場から、B寝台車にまなざしをむけておりましたw
この列車は忘れられません。

乗った日の上り列車は岡山廻りでした。正規の経路はみやびが落っこちて通れなかったので…。
そんなものない様
岡山廻りで乗車出来たとは貴重な体験でしたね。
私の友人は福知山線の踏切事故のため京都経由便に乗った事があると言ってました。
夜行のみの時代に乗りました。
途中までは、めちゃめちゃ混んでました。
福知山でかなり停車していました。

末期は「エーデル」車使用の夜行だったと聞いています。
「エーデル」車は酷い騒音を撒き散らしてましたから、沿線住民は迷惑だったでしょうねエ。ww
1984年10月 道場駅

福知山線道場駅で写したものです。
電化工事たけなわですが、まだ腕木信号機が見えますね。

えびび様
 私は昼行〔だいせん〕に乗る機会がありませんでした。貴重なお写真をありがと^―^ございます。

たま様
 私は三段式時代に2回、二段式時代に1回乗りました。三段式はキツかったですね。
ばったもん京都人様
 貴重なお写真をありがと^―^ございます。大震災の頃は夜行列車がまだ全国で普通に沢山走っていたのに、今や全く様変わりしてしまいましたねえ…。
山陰ワイド周遊券で宿泊がわりに出雲市〜福知山往復という使い方がありました。自由席はナハ21でした。
急行「だいせん」大阪⇔出雲市
@出雲市 B寝台車
20系客車の急行「だいせん」@国鉄松江駅
>>[022]
貴重なお写真をありがとうございます。山陰ワイドは使い勝手の良い切符でしたよね。周遊券の系譜を引くゾーン券も廃止が決まり、昭和は遠くなりにけりですね。
>[16] 五右衛門は釜茹でです、吾左衛門寿しでは。
だいせん号は二回乗りました。一回目は豊岡から大阪でこの時は座席車に乗りました。
二回目は鳥取から大阪が寝台車でした。

夜行急行だいせんは20系のフル編成の時代は有名だったけど、この時代は6両の三段ハネと3両の指定席で成り立っていた、準寝台急行である。もう1つだいせんの特徴は実質隠岐連絡唯一の夜行列車ということでも人気が高かった。
東の中央東線、西の福知山線は国鉄分割民営化前の最後の改正によって、昼の急行列車の特急への全面格上げに加えて直通サービス切り捨てによって批判を招いた線区であるのと、この2つの共通点は高速道路の影響は極めて大きく、唯一残ったのが夜行列車であるといった点である。

だいせんは特急まつかぜ無き後は関西から島根県へ足を伸ばす唯一の列車だったことは有名であった。

>>[28]
急行ではないけど今はサンライズ出雲になるんですか
>>[029]
厳密ではありませんが大阪を基準すると、該当しないとは言い切れません。
逆にサンライズ出雲もある意味ではだいせんに引導を渡した列車といえます。
経由地からみると、「サンライズ出雲」は伯備線経由、客車の「出雲」は京都から山陰本線経由、急行「だいせん」は福知山線経由と陰陽の連絡が全く違いますので、厳密に後継とは言い難いと思います。「サンライズ出雲」は岡山まで「サンライズ瀬戸」と併結運転されているため岡山経由になったと思われます。また「サンライズ出雲」誕生時、山陰本線の園部-綾部間は確か電化されていなかったと思います。また城崎温泉-伯耆大山間は現在も非電化ですので、電車ならば伯備線しか選択肢がなかったのでしょうね。
>>[031] コメントありがとうございます。
大阪から島根県へ直通するのは国鉄時代は特急まつかぜ(1往復)、急行だいせん(昼1往復、夜1往復)と計3往復ありました。
サンライズ出雲・瀬戸の誕生の経緯を見ると、東京〜出雲市・高松は意外なことに他の直通手段に乏しいことや女子客も多く他に逃がさないようにする為にサンライズ号といったシティホテル並みの接客設備と2等船室並みのノビノビ座席で運賃+特急料金で人気を得ました。

かつて関西(大阪)〜島根県唯一の直通客車急行だいせんの引退は新幹線のぞみ+やくも(伯備線経由)、スーパーはくと(智頭急行経由)、山陰特急バス等に押されてしまい、だいせんにとって一番のダメージは周遊券の廃止が原因による需要激減でした。

急行アルプスみたいに夏は登山、冬はスキーといってもせいぜい氷ノ山、大山位しかないからなおさらだと言わざるを得ない。

>>[32] 蒜山高原なんかもあまりアピールできていないようですし。(姫新線にはかつて「ひるぜん」という急行が走ってはいたが)
>>[033] やはりだいせんの走行線区である、福知山・山陰線は線路規格からして昔ながらの鉄道だといえます。
>>[34] 陰陽連絡としては、現在はどうしても伯備線がメインになってしまっていますからね。
>>[035] 伯備線がメインルートとして脚光を浴びたのは、昭和47年の岡山開業の時ですが、特急やくものキハ181系時代は大阪〜出雲市で5時間30分掛かっていた為に、夜に寝ながら移動することが出来るだいせんは人気があり、寝台車6両で座席車(指定席)3両もあった位です。

周遊券廃止によって需要が激減した背景には、急行だいせんの走行線区や運転時間帯から見て目的地が下りは山陰地区(鳥取・島根県・隠岐連絡)。
上りは大阪・京都・神戸の近郊区間である。

そうすると、周遊割引運賃の上に寝ながら移動出来るだいせんのメリットが大きいのに、それがなくなれば需要が激減するのは当然だといえます。
急行だいせんのダイヤ上の特徴は竹野辺りで急行だいせん同士の交換することやもう1つは余部鉄橋を深夜通過するから車輪からその音が聞こえました。もう1つは倉吉〜出雲市が普通列車(青春18きっぷでの乗車が可能になる区間)だから大阪〜倉吉まで急行券・乗車券を買ってそのまんま乗る人もいました。
その他に急行だいせんは城崎の旅館の仲居さんが乗って来る列車でも有名でした。
もう1つは縁結びの神様出雲大社に朝一番に到着することに加えて米子で朝一番の境港行きに連絡することでも有名でした。

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