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東アジア歴史文化研究会コミュの『日本人が知ってはならない歴史』?

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『日本人が知ってはならない歴史』?

15.桂・ハリマン協定破棄は日本の錯誤

 日露戦争の講和会議は1905(明治三十六)年6月9日、ポーツマスで開始されました。
 講和気運の高まる8月10日、アメリカの鉄道王ハリマンがニューヨークを発ち日本に向かいました。ハリマンは日本の戦時外債に協力した最も有力な人物だったことから政府・大蔵省・財界あげて大歓迎しました。
 ハリマンは南満洲鉄道を、自分の経営する会社と共同経営したいと提案しました。日本側は戦後の経営を考えて、ここはアメリカの力を満州に引き入れた方が今後の対ロシアとの対抗にも有利と判断し、首相桂太郎は明治天皇の内諾も得て、桂・ハリマン協定として知られる仮条約(覚え書き)に調印しました。
 ハリマンと入れ違いに帰国した小村寿太郎外相は激怒し、この仮条約を破棄しました。そして清国との条約で「南満洲鉄道経営については両国以外に関与すべからず」との一条を入れさせたのです。・・・・
 ハリマンは激怒し「日米両国は十年もしないうちに戦争するであろう」とまで言いました。
 1909(明治四十二)年、ハリマンは急逝しました。そして小村寿太郎も、この仮条約に尽力した伊藤博文も前後して率然と急死します。・・・
 ここでは小村寿太郎外相たち、つまり日本の犯した誤ちの省察を記しましょう。
 アメリカの排日移民問題の悪化について触れておきます。それは、日本人移民の増大を諜報との関係で警戒するようになっていたということです。日本人にはピンとこないことですが、移民とか亡命とかは、諜報と直結なのが常識です。・・・・
 ここではアメリカ軍部の視線をトレースしましょう。
 日本は下関条約で台湾を領有しました。台湾領有の戦略的な意味について、日本は深く解析した痕跡がありません。第一は、中国の沿岸部の交通路は琉球弧とあいまって、日本の支配化におかれたということです。これは今日でも重要なポイントなのです。台湾、沖縄は、中国の太平洋への出口を扼している、つまり封鎖しているのです。
 二つ目はアメリカの隣国は日本となったことです。バシー海峡を挟んで、アメリカと日本は隣国同士になりました。
 フィリピン総督であったタフト陸軍長官は、ポーツマス講和会議が進行中の7月27日に来日して桂首相と会談し、「桂・タフト覚書」として知られる協定を結びました。会談の席でタフトは、「アメリカ国内ではロシアに好意的な人々がいて、フィリピンはこの次は日本の目標だと言う」と発言しました。桂首相は、「日本はフィリピンに野心をもつようなことはない」と当然にも明確に答えています。するとタフトは、「朝鮮は現状のままでは左右に揺れて、日露戦争の原因になったが、ここは日本が断固とした措置を取る必要がある」と述べました。さらに、「朝鮮が日本の同意なしに他国と条約を結ばないように、日本が軍隊を駐留させ保護国にすることが極東の平和に貢献すると考える。大統領も私と同じ考えだ」と付け足しました。
 ポーツマス講和会議の席でルーズベルトは小村寿太郎全権に、「朝鮮の外交的不道徳が日露戦争の最大の原因だ」と言い、「朝鮮を日本の保護領にすることを要請する」と明言しています。
「外交的不道徳」とは、大韓帝国とロシアとの秘密同盟などのことを指しています。朝鮮がまさにロシアの手に落ちようとした直前に日露戦争となりました。・・・・・
 日清戦争の日本の勝利の後に、朝鮮は大韓帝国として独立しました。とたんにロシアが南下して、国王はロシア公使館に監禁され、露韓密約が結ばれロシアは朝鮮各地に軍事基地を構築するに及び、日露は開戦したのです。こうした向背常なき朝鮮の外交を「不道徳」と米英は言ったのです。
 アメリカは、自国がフィリピンを保護国化したことについての追認・保証を、日本に要求してきました。そして朝鮮の保護国化をアメリカは要請し、同意・保証を与えたのです。
 日本はこうした過程で、日露戦争後の米英の中国・満洲政策の方向を解析することに大きな錯誤を犯したのです。そのはしりが桂・ハリマン協定の破棄です。ルーズベルトは朝鮮の外交を「不道徳」と非難しましたが、日本の協定破棄こそ「不道徳」ではなかったでしょうか。
 日本必死の戦時国債を引き受け、のみならずロシア国債の暴落に協力してくれた世界のユダヤ人社会・メディア社会・米英の各界の支援を、勝ち逃げで一方的に破棄するというのは、あまりに「不道徳」だと思われるのは当然です。底冷えのするような日本不信が確実にユダヤ人世界に広がりました。・・・・
 勝利した時こそ大局を見なければなりません。日露戦争勝利という過度の安心の中で、日本は桂・ハリマン協定の破棄という錯誤の第一歩を踏み出しました。第二歩は何か。満洲から日本はロシアと結んで米英を排除したことです。反米親露というこの転舵に反対していた伊藤博文が死んだのです。野に涙あれ、です。

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